第八章 コナシの技術
「所有価値社会」から「使用価値社会」へ
 散々、スマートフォンの悪口雑言(あっこうぞうごん)を書きましたが、スマートフォンを老若男女(ろうにゃくなんにょ)の日本人が、日々、愛用していることは素晴しい。感嘆します。モノは、使わなければ、唯のモノですが、活用してこそ価値が生まれるからです。
 戦後、日本人は、戦争中の物資欠乏の反動で、ひたすらモノを持つことに執着しました。「三種の神器」と崇(あが)められた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、をはじめ、「3C」と称せられた、カー、カラーテレビ、クーラー、などなど、次から次へ、モノを買い続け、高度成長を招来させたのですが、モノを持つことに熱心なわりには、モノを使うことには不熱心でした。キモノもご多分に漏れず、買ったけれど着ないままで「箪笥(タンス)の肥やし」になってしまっていた。家の中に、モノが溢(あふ)れかえり、モノ余り現象が起きたのです。
 戦後の日本人は、モノを持つこと、所有価値に大きな価値を求めていました。しかしモノ本来は、使われてこそ価値が、使用価値が生まれるのです。今、大半の日本人が、スマートフォンを愛用して、様々な情報を入手し、発信していることは、モノを創り出すことで生まれた生産価値が、使用されることで価値実現しているのです。

「使い捨て社会」から「使い続ける社会」へ
 モノは、しかしモノ自体に存在価値があります。この世の中に、ありとあらゆるモノのコレクターがいらっしゃるのは、故なきことではない。「蓼食う蟲も好きずき」とはよく言ったもので、コレクターの収集品は、他人の理解をはるかに越えている。
 私は、というと、レコード、フィルムカメラ、かな。どれも過去の遺物で、新たに生産されているものは、ほとんどありません。それでも、それなりに入手できたのは、中古レコード屋さん、中古カメラ屋さん、それと、ヤフーオークションのお蔭です。
 モノ(物)には、「物語」があります。モノが語る、モノだけが語れる「物語」が。モノを見て、触れて、読んで、鳴らして、着てみて、遊んで、モノが語る「物語」に耳を澄ますと、聴こえてきませんか、目を凝らすと、見えてきませんか、モノを創った人の思いとか、モノが生まれた時代の空気とか、モノを育てた土地の風景とかが。  いつの頃からか「断捨離」というコトバが流行語のようになって、モノに捉(とら)われない、モノに拘(こだ)らない生き方が、さも上等のように言われたり、思われたりしましたが、私は、生まれながらの物欲の権化なので、悟りには今なお程遠いのです。
 そんな私ですから、すでに生産が終わってしまった、もう二度と手に入らないモノが、中古市場で入手できるのは、本当にありがたい。その昔なら、古道具屋さん、骨董屋さんでしょうが、今や、リサイクル市場は、ありとあらゆるモノで活況を呈しているのです。