第七章 実感主義
「バーチャル社会」から「リアル社会」へ
 余り大きな声では言えないですが、だから内緒の話ですが、私は、いまだに携帯電話を使ったことがない。ましてスマートフォンなる代物(しろもの)は。私は私、の趣味の話なので、人様にゴリ押ししようなどとは露、思ってもいませんが、私なりの理屈はあります。
 他人のことなので、それこそ、余計なお世話ですが、もし、スマートフォンをなくしたら、と考えたことはありませんか。スマートフォンを、一度も使ったことがない私が言うのも何ですが、たて14センチ、よこ7センチの手のひらサイズに、どうも膨大な情報が蓄積されているらしい。昔でいうなら、住所録とか電話帳とか、電卓とか、メモ帳とか、CDとか、DVDとか、本とか、辞書とか、私の想像もつかないぐらい無尽蔵の情報が。
 しかし、もし、スマートフォンをなくしたら、一瞬のうちに、すべての情報は、跡形もなく消えてしまう。それは、スマートフォンがバーチャルだから。どんなに膨大な情報も、そのどれ一つ、触(さわ)れない。夢、幻(まぼろし)なのです。どんなに不便でも、私は、リアルがいい。形あるものが。

「視野狭窄社会」から「五感全開社会」へ
 スマートフォンを、目の敵(めのかたき)にするわけではありませんが、四六時中、たて14センチ、よこ7センチの極小画面を見続けるばかりでは、視野が狭くなるでしょう。その昔、寺山修二が「書を捨てよ 町へ出よう」という本を書いて、その頃、本を読むのが好きで、だけど、本を読むばかりで、実人生から逃げている、現実逃避しているのでは、と後ろめたく思っていた私は、その本の題名を見て、図星だ、痛い所を突かれた、と思いました。
 今、私は、週に一度の休日に、家内と散歩に出かけるのですが、野でも山でも、海でも街でも、どこに行っても、発見の連続です。見上げる空、白い雲、咲き誇る花、鳥の囀(さえずり)、眼は見ることを楽しみ、耳は聞くことを喜び、肌は心地よい風に触れ、鼻はかぐわし香りに安らぎ、舌は美味に酔う。至福の五感全開。

「ながら社会」から「みちくさ社会」へ
 歩きながら食べる、自転車に乗りながらスマホを見る。その昔、「ながら族」というコトバが流行したような記憶があるのですが、「ながら族」だらけになってしまって、最早、流行のしようもないコトバになってしまいました。しかし、「ながら族」は、社会の害毒だ、と私は思っています。歩きながら食べるのは、体によくない。自転車に乗りながらスマホを見るのは、危険だ。
 聖徳太子は、一度に十人の話を聴き分けたそうですが、聖徳太子は、いざ知らず、凡人(平凡な人間)は、一度に一人の話を聴き分けるのが精一杯で、それすら覚束(おぼつか)ないのに、一人の人間が、一度に、二つも、三つも、違うことをやるのは、土台、無理です。止めましょう。その代り、あっちへ寄り道、こっちへ寄り道の道草を楽しみましょう。