第六章 真の豊かさの実現
「まつり偏重社会」から「くらし重視社会」へ
 私は、「まつり」がキライです。「まつり」の後の空虚(むなし)さがイヤなのです。なぜ、「まつり」が空虚(むなし)いのか。「まつり」が、非日常だからです。どんなに楽しくても、ほんの束の間(つかのま)で終わってしまう。
 非日常の「まつり」の前後には、日常の「くらし」がある。ずっと途切れることない時間が。その尽きることのない日々の「くらし」の時間が、今より少し楽しくて、満ち足りていることの方が、私にとって、ずっとずっと大切なのです。
 だから、オリンピックとか、万博とかに、莫大な経費を懸けるより、すべての国民の生活の安定、向上のためにこそ、予算を計上して欲しいのです。

「ブランド志向社会」から「個人趣味社会」へ
 呉服屋という商売柄、営業時間中、ずっと接客ということはなく、普段は、店の前を通り過ぎる人を、見るともなしに見ているのですが、ここ数年、道行く人のファッションが、明らかに変ってきたのです。どう変わったか、というと、個性的になった。自分に似合う、好みに合うファッションを、上手に選んで楽しんでいるのです。以前は、ブランドものの服を着たり、バッグを持ったりしている人が多かったし、私のような流行音痴でも、今、どんな色やデザインが流行(はやって)いるのか、おおよそ見当がついたのですが、そういう、お仕着せファッションを身に纏(まと)っている人が激減しました。
 自分に似合う、好みに合うファッションでお洒落する、というファッション革命が、今まさに起きている、と言ってもいいと思うのですが、巷(ちまた)で静に進行しているファッション革命が、日本社会の変革の誘因となる予感がするのです。「権威盲従社会」から「自主独立社会」へ、「価値単一社会」から「価値多元社会」への。それは、日本を覆(おお)い尽くしていた頑強な「タテ社会」が、「ヨコ社会」へ変わる可能性を秘めていると思うのです。

「他者嫉視社会」から「自己充足社会」へ
 「ねたむ」の語源は、「音(ね)痛む」だそうです。他人の評判、お金持ちだとか、美しいとか、仲が良いとか、を噂に聞いて不愉快になる、ということだそうで、要するに、他人と自分を比べて、自分の境遇に不平不満を持つことなのです。
 他人を「ねたむ」のは身体(からだ)に良くない、毒が全身に回る。処方箋は、私は私、と開き直る。開き直って自己満足していればいい。