第五章 共存共栄
「競争社会」から「共存社会」へ
 いつの頃からか「勝ち組」「負け組」というコトバが、流行語のようになりました。「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということでしょうが、物事を、すべて、「勝ち」、「負け」で判断、評価するのは、如何なものでしょう。「負けるが勝ち」という含蓄のあるコトバもあるのですから。
 「勝ち組」「負け組」というコトバには、世の中、とことん、「競争社会」だ、という意識がある。「勝ち組」イコール「成功者」、「負け組」イコール「敗残者」。しかし、何をもって、「勝ち」とするのか、「負け」とするのか。他人を蹴落とすことが、そんなに楽しいか。他人に先を越されることが、そんなに悔しいか。
 確かに現実は、受験戦争に始まって、就職戦線、出世競争、と絶える間もない熾烈(しれつ)な競争の連続かもしれない。しかし、他人と闘い続けて、心の休まる暇が、ひとときもあるのだろうか。勝ち続けることで、得るものが、はたして心身の労苦に見合うのだろうか。
 競争至上主義、というのも、「価値単一社会」の負の側面ではないか、と思うのです。何かを得ることは、何かを失うことだ、とある時、私は悟りました。何かを得ることで、失うものの大きさに気付かないことがある、と私は思ったのです。他人をライバルとしか見ないことで、他人との心のつながりを結べない。他人を蹴落とすことで、優越感に浸って、自分の世界をせばめていくことが、はたして幸福な人生の条件なのだろうか。
 その昔、結婚相手の条件が「三高(さんこう)」だと、まことしやかに流布されていたことがありました。「高学歴・高収入・高身長」の「三高(さんこう)」。多分、今も変わらず言われ続けているかもしれませんが。私なんか、はなから該当しませんが。しかし、絵に画いたような「三高(さんこう)」さんと結婚できたとして、はたして、幸福な結婚生活が送れる保証があるのでしょうか。長い人生、そんな単純な話ではない。気の置けない友達づきあい、心安らぐ夫婦の会話。交わす笑顔が、幸福な人生の証なのです。

「三ダケ主義社会」から「三方よし社会」へ
 今、日本中いたるところに、「三ダケ主義」がはびこっています。「今ダケ、金ダケ、自分ダケ」、という。なぜ、かくも「三ダケ主義」がはびこってしまったのか。原因は、「公」の欠如にある。「公」という字は、中国渡来の漢字で、中国の読み方、「音読み」では「こう」ですが、日本での読み方、「訓読み」では「おおやけ」です。なぜ日本人は、「公」を「おおやけ」と読んだのか。「おおやけ」は、元来、「大宅」でした。「大宅」とは、すなわち「大きな居宅」を表すコトバで、意味するところは、朝廷、摂関家、幕府でした。すなわち、時の最高権力者。だから日本人にとっては、最高権力者の権威が「公」だったのです。「お上の御威光」が「公」だったのです。「三ダケ主義」が跋扈(ばっこ)する現状を見るにつけ、未だ、この国に、真正の「公」の概念が根付いていないことを、思い知るのです。
 では、「公」とは何か。私は、「世のため 人のため」だと考えます。絶えず、「世のため 人のため」を思うことが「公」であると。商売に携わって50年、「情けは人ためならず」というコトバを実感することが、しばしばありました。自分のためではなく、他人のために何かをすることが、回りまわって、自分のためになることが。自己犠牲、とか、奉仕精神、とか、何かそういう取って付けたような気持からではなく、ごく自然に、当たり前にしたことが、大きなお返しなって返ってくる。近江商人の「三方よし」は、商売の極意なのです。

「傍若無人社会」から「思いやり気くばり社会」へ
 「傍若無人(ぼうじゃくむじん)」、とは、「傍(かたわら)に人無きが若(ごと)し」と言う意味で、読んで字のごとく、辺(あた)りかまわず好き勝手をやることです。傍若無人の人がいたら、はなはだ、傍(はた)迷惑ですね。やはり、「公」の意識の欠如です。自分だけが、生きているわけではない。自分だけで、生きていけるわけではない。この世に生を受けてから、ずっとずっと、自分以外の誰かと共に生きているのです。
 だから、人生で大事なことは、自分以外の誰かと共に生きていくために、自分自身と自分以外の誰かとが、どうしたら仲良く、気持ち良く共に生きていけるのかを、片時も忘れないことです。そのためには、他者への、思いやり、気くばりがとても大事なのです。

「利己主義社会」から「個人主義社会」へ
 ふと気づいたのですが、最近、公共精神というコトバを、余り聞かなくなったような気がするのですが。「名は体を表す」ものですから、体が無くなると、名も無くなるのだとしたら、公共精神というコトバが無くなったのは、公共精神が無くなったからではないか。飛躍が過ぎるかもしれませんが、あながち的外(まとはずれ)ではないのかもしれない。
 公共精神に取って代わって、最近、とみに聞かれるコトバが、三ダケ主義、今ダケ、金ダケ、自分ダケ、という利己主義丸出しのコトバです。なぜ、現下の日本で、利己主義が猛威を振るっているのか。私は、実は、個人主義の未成熟だと思うのです。
 個人主義とは、個の尊重ですから、自己の個を尊重することは、とりもなおさず、他者の個も尊重することになる。自己と他者の個を、等しく尊重するためには、他者への配慮が欠かせません。公共精神とは、まさに他者への配慮だとしたら、個人主義の確立こそ、共存共栄の礎(いしずえ)なのです。