第四章 多様性の確保
「価値単一社会」から「価値多元社会」へ
 「タテ社会」の人間関係を、極めて図式的に簡略化すると、最上位から最下位まで、一本の縦筋で貫かれている。実際の日本社会は、それほど単純な構造になっているわけではありませんが、イメージとしては、そんな感じです。なので、「タテ社会」の意思決定は、上意下達。最上位の意思が、最下位まで貫かれるのです。極論ではありますが、日本社会の人間関係は、往々にしてそういう傾向があります。「右向け右」と言われると素直に右を向く。自分の判断より上位者の意向に無批判に従う。
 人間の行動原理は、価値観です。何に価値を求めるのか、何に価値を見出すのか。最上位者の意思が、最下位者まで貫かれる「タテ社会」では、最上位者の価値観が最下位者まで貫徹する。「タテ社会」とは、コトバを変えれば、「価値単一社会」なのです。しかし、「十人十色」「人生いろいろ」が世の中の常ですから、必ずしもみんながみんな、同じ価値を信奉するわけでは、本来ない。ところが、異論をはさませない「タテ社会」では、「もの言えば唇寒し」。それって、寄ってたかって自分を殺させる。
 金子みすずは、「私と小鳥と鈴と」のなかで、「みんなちがって みんないい」と歌いました。「価値多元社会」の到来を高らかに歌ったのです。

「一極集中社会」から「多極分散社会」へ
 最上位から最下位まで、一本の縦筋で貫かれている「タテ社会」が「国のかたち」になると「一極集中社会」となります。1995年1月17日、阪神淡路大震災の発生直後、私は、「イッタイ コレカラ ドウナルノダ ドウヤッテ タベテイクノダ」。須磨の自宅は、屋根瓦は、ほとんど落ちてしまったけれど、倒壊はまぬがれました。元町の店舗は、夕方、やっと通じた電話で、社員が、「無事でした」と知らせてくれました。この目で確かめようと、翌日、自転車で店まで行こうとしたら、道という道が、倒壊した建物で通れなくなっていて、やっと店にたどりつくと、本当に無事でした。助かった、心底、安堵しました。
 しかし、店に行く途中で見た街の惨状は、悲惨でした。もし私の家が、店が、同じ建物で、もしこの地震で倒壊してしまっていたら、たちまち、住む処も、商売をする所も、一度に失ってしまっていた。不幸中の幸いで、家も、店も無事残ったけれど、家と店が別の場所に在れば、家が駄目になっても店に住める。店が駄目になっても、家で商売が出来る。想定外の危機に遭遇しても、家と店が分散していたことが、危機を回避する上で重要だった、と痛感したのです。
 私にとって、阪神淡路大震災の最大の教訓は、危機管理として、リスクの分散が重要である、という認識でした。だから、日本という国を考えた場合、とどまるところのない東京一極集中は、極めて危険だと思わざるをえないのです。いつ襲ってくか知れない危機に対して、早急に「一極集中社会」から「多極分散社会」へ日本は舵を切らねばならないと考えます。

「ナンバーワン社会」から「オンリーワン社会」へ
 私は、オリンピックが嫌いです。見たくも聞きたくもない。私が、オリンピックが嫌いになったのは、オリンピックが、本来の開催意義から、どんどん逸脱していっているからです。近代オリンピックの創始者、クーベルタン男爵は「オリンピックは、勝つことではなく、参加することに意義がある」、とおっしゃられたそうですが、今や、オリンピックは、勝つことにしか意義がなくなってしまった。
 金メダルを取ることが、金メダルを取ることだけが目的になる、つまり、それは、ナンバーワンになることにしか、価値を認めないことです。しかし、ナンバーワンになれるのは、たった一人です。ナンバーワンになれなかった、その他大勢は、価値が認められないのです。クーベルタン男爵が「オリンピックは、勝つことではなく、参加することに意義がある」、とおっしゃられたのは、オリンピックに参加するすべての競技者は、参加することにおいて価値がある、とおっしゃられたのです。
 金子みすずの「みんなちがって みんないい」も、この世の中に存在するすべてのものは、存在することにおいて価値がある、と歌っているのです。それは、すべての存在は、オンリーワンだから。他の何をもっても代えがたい価値を持っているからです。