出 会 い
 1991年1月6日、新年のご挨拶に京都の問屋さんを回ったおり「菱一」さんで の雑談のなかで私の誕生日が一月十日、本恵比寿の日なので商売人としては目出度い 生まれですと軽口を言っていると傍に座っていた人が「私も一月十日が誕生日ですが 私の地元の新潟では一向に目出度い話ではありません。」と口をはさまれました。 「私はこういうもので」と差し出された名刺には「縮屋六代目 樋口隆司」と書かれ てありました。「お蔭様で今回全日本新人染織展で大賞を頂戴しました。京都文化博 物館で発表されていますのでお時間がありましたらご覧ください」とお誘いを受けた のが樋口隆司さんとのご縁のはじまりで、以来、樋口さんには二度、弊店で個展を開 いていただきました。二度目の個展のおり樋口さんから「信州上田の小山憲市さんと いうかたがとても良いものを作っておられます」と教えていただきました。後日、小 山憲市さんが全日本新人染織展で三年連続して奨励賞、大賞、を受賞された作品の写 真も送っていただきました。丁度その頃発刊された「家庭画報特選 きものサロン  97春号」に弊店が紹介され、同じ号の特集に「信濃路・春の旅―信州の染と織」が あって、その中で小山憲市さんご本人と作品が一緒に写真で紹介されていました。小 山さんの電話番号も記載されていて何か深いご縁を感じ思わずお電話をおかけしたの ですが電話口に出られた小山さんは「私もきものサロンの記事で丸太やさんを拝見し てこういう呉服屋さんもあるのだと思って見せていただきました」とおっしゃってく ださいました。
 その夏、信州の松本に行くことになり地図で見ると上田は足を伸ばせば行ける距離 でしたので思い切って小山さんをお尋ねすることにしました。宿泊先に迎えにきてく ださった小山さんはきものサロンの写真で想像していたより精悍で、ご自宅に案内し ていただき、お話を聞かせていただいたのですが、それは思いもかけない復活の物語 だったのです。小山さんの家は代々染屋をされておられたのですがお父さんの代から 織物を業とされていました。ところがある時期、呉服業界では留袖、振袖、訪問着な ど晴れ着が中心になり、紬や絣という織物が普段着ということで片隅に追いやられて しまいました。小山さんのところでも注文がどんどん減って、もう織物では生活でき ない、というところまで追い詰められたのです。いよいよ廃業を決意され、しかし最 後に自分が本当に織りたかった着物を織って止めよう、そう決心されて織り上げた着 物を全日本染織新人展に出品されたところ京都商工会議所会頭賞を受賞され翌年には 大賞・文部大臣奨励賞を受賞されたのです。それまでは問屋の注文で指示されたもの だけを作ってこられたのですが、これからは本当に自分が作りたいものを作ろう、そ こに道が開けるかもしれない。「あのときあっさり止めていたほうが良かったかもし れないですが」しかしあきらめきれず再び歩み始めた織の道、その道のなかばで小山 さんと出会えたことは、決して平坦ではない先の見えない商いの道を歩んでいる私に とってどれほど励みになったことでしょう。心をこめて織ることが織の道ならば、そ の心を伝えるのが商いの道、織にこめられた心は人の心を打ち、人の心を動かす、小 山さんの織物は私に商売の大事な有様を教えてくださいました。