第八章  後 継

 最近になって、父の存命中から、ご贔屓を頂いているお客様から、「奥さんは、久雄さんが、大学を出て、店に出る、と言ってくれた、と嬉しそうに、お話されていましたよ」、と聞かされました。母は、一度も、私に、大学を出たら、店に入るように、とは言わなかった。言いたい気持ちは、一杯だったでしょうが、一度も、そう言わなかった。私が、大学を出たら、店に入ろう、と決めていたのは、大学に入学した時、叔父に報告すると、「4年間、東京で遊んでおいで」、という一言でした。続けて、叔父は、「店の子を、大事にするのが、お父さんの代からの、『丸太や』の伝統や」、と言われたのです。その時、私は、大学を出たら、神戸に帰って、「丸太や」に入り、社員を大事にすることが、私に与えられた責任だ、と自覚したのです。
 社員の谷口澄治さんは、「お父さんは、商売は厳しい方やったけど、京都に仕入れに行った帰り、錦市場で、『澄治、この佃煮、美味しそうやな。買うて帰ろか、言うて、優しい方やった。茶目っ気も、有って」。「僕が、一生懸命、『丸太や』の商売するのは、お母さんと正吾さんが、立派な方やから。がんばろう、思うんや」。谷口澄治さんが、私に、熱っぽく聞かせてくれた話にも、私は、大学を出たら、店に出よう、と言う気持ちを固めさせました。
 私も、息子に、一度も、学校を出たら、「丸太や」に入るように、とは言いませんでした。進学、結婚、就職、は自分で決めるもの。他人に、指図されるものではない。唯、私も、学校を出たら、息子に、「丸太や」に入ってもらいたかった。なぜなら、私が、受け継いだものを、息子に継がせるのが、私の大事な仕事だから。私が出来なかったこと、成し遂げられなかったことを、息子に、やり遂げて欲しかった。だから、息子が、呉服屋になる、呉服屋になって、「丸太や」を継ぐ、と「NHK」の番組の中で、公言したことは、嬉しかった。なぜ、息子が、呉服屋になろうと決めたのか、なぜ、「丸太や」を継ごうと決めたのか、も。
 もしかしたら、私以上に、母が喜んだかもしれません。その時、すでに、認知症が発症していましたが、孫の弦(ゆづる)が、「丸太や」の後を継ぐ、ということは十分、理解できたし、喜んでくれました。息子は、「丸太や」の五代目、になります。母は、当初、デイサービスや、ヘルパーさん、など、介護のお世話をしてくださる方に、「孫が、五代目を継いでくれるんです」、と嬉しそうに、話していたのですが、いつの間にか、「五代目」が、「十五代目」になっていました。テレビを見るのが、唯一つの、母の楽しみで、「水戸黄門」や、「大岡越前」、「暴れん坊将軍」、「遠山の金さん」、などの時代劇を、欠かさず見ていました。どうも、徳川将軍家、十五代に影響されたのでしょうか。


谷口澄冶さん

息子 三木弦