きもの四方山話

第八話  きものの心

 40年ほど前 、呉服屋になった私に与えられた最初の仕事は、掃除でした。呉服屋に限らず商売は、お客様を店舗にお迎えすることから始まります。ですから、お客様をお迎えするのに、店舗を綺麗にしておくことが何より先ず大切なのです。次に与えられた仕事は、仕立屋さん回りでした。お客様にお買い求めいただいた反物を、着物やコート、羽織、襦袢に仕立てしていただくように届けたり、仕立て上がりを取りにいくのです。仕立屋さんは皆さん熟練者で、「丸太や」とは長いお付き合いの方ばかりでした。当時、64歳だった母が、17歳の時、「丸太や」に嫁いできた、その時の花嫁姿を、お針子さんとして見ておられた仕立屋さんがいらっしゃったぐらいです。
 私は、呉服屋になって日も浅く、呉服について、何の知識もありませんでした。そんな私に、仕立屋さんは、いろいろ、仕立てについて、親切に教えてくださいました。当時、着物の裏地である胴裏には、白色とピンク色の2種類ありました。ピンク色を朱鷺色と呼ぶことを教えていただきました。幻の鳥、朱鷺の翼の裏側の色だそうです。ナント綺麗な呼び方、と感心しました。私が、深く感銘を受けたのは、着物の裁断の仕方です。洋服が立体裁断なのに対して、着物は平面裁断なのです。洋服の場合、布地を曲線で裁断します。しかし、着物の場合、すべて直線で裁断するのです。三丈五尺、ほぼ13メートルの反物を、身頃(胴)、袖、衿、などの各部位に直線で裁つのです。
 洋服が、布地を曲線で裁断し立体で縫製することの利点は、人間の体型に、より対応して仕立て上がることです。その結果、洋服は、人間の挙動に、より順応し、自由自在に行動することが可能になるです。しかし、欠点は、曲線裁断、立体縫製の故に、人間の肢体の各部位に合わせて布地が裁断される結果、その布地は他の部分と互換性が無いのです。人間が身に纏う衣服は、すべて、人間が着用した場合、特定の部位が摩滅、消耗します。衿、袖口、裾、膝、臀部、など、摩擦が生じやすい部位、圧力がかかりやすい部位です。もし、その部位が摩滅、消耗した場合、他の部位が健全であっても、洋服としては正常な状態ではなくなります。
 着物は、直線裁断、平面縫製であるが故に、人間の肉体の立体を覆うのには無理があります。行動性に欠ける嫌いがあります。しかし、着物における、直線裁断、平面縫製の利点は、直線で裁たれた、身頃(胴)、袖、衿、の各部位が、互換性を持っていることです。衿、袖口、裾、膝、臀部、など汚れたり裂けたりしやすい部位を、別の部位と取り替えることが容易に可能なのです。また、一反の布地、反物は、一端、着物に縫い上げられた後、補修、再生のために、縫い目をほどき、それぞれの布地に戻した後、その布地を縫い合わせる端縫い(はぬい)という作業によって、元の反物の状態に復元することが出来き、「洗い張り」という着物の洗濯が容易に出来るのです。
 過去の歴史上、大半の日本人にとって、白米と絹は、無縁だった。白米を食べること、絹を着ることは、特権階級にのみ許されていた。次第に、白米が食べられる、絹が着られる日本人が増えてきても、白米も、絹も、貴重品だった。だから、大事に大事に、食し、着した。絹の布地を、大切に、大切に、使い続けるために、日本人は、着物の形、その直線裁断、平面縫製、を完成させました。その結晶ともいうべき知恵が、「繰越(くりこし)」という工夫のなかにあります。日本人は、貴重な絹で出来た布地を大切に使い続けるために、修復、再生が容易なように、可能な限り、布地を簡素に裁断し、裁断された布地に切り込みを入れないように工夫しました。しかし、人間の首が入る所だけは、「肩開き(かたあき)」という切込みを入れなければなりません。その切り込みを、左右の身頃(胴)の布地の、丁度、真ん中に入れたのです。しかし、実際に着物として着用する場合、後ろの首筋に当たる部分は、衿が少し、背中に向かって、落ちていなければなりません。その落ち加減を、背中の身頃の一部、帯で隠れる部分で摘まんで下げるのです。その工夫を「繰越」と呼ぶのですが、それは、着物を縫い直す場合、身頃の前と後ろを入れ替えることが出来るように、「肩開き」という切込みを、身頃の真ん中に入れたのです。
 「きものの心」とは、「モノを大切にする心」だ、と思います。「モノを大切にする心」とは、「モノをいとおしむ心」だ、と思います。「いとおしむ」とは、「愛おしむ」と書きます。「モノをいとおしむ心」とは、「モノを愛する心」です。しかし、私には、「いとおしむ」とは、「いと」「惜しむ」ではないか、と思えるのです。「いと」とは、古語で、非常に、というふうに強調する言葉です。「惜しむ」とは、惜しいと思う気持ちです。「モノ」を、非常に惜しいものだ、と思うがゆえに、大切にする、その心だと思うのです。