第一章  出会い

 「大阪シンフォニカー 第1回定期演奏会」を無事終了したのも束の間、大阪シンフォニカーは最初の危機を迎えていました。団員の大半は音楽大学の卒業生、在校生で私のように音楽大学を出ていない団員は3名だけでした。大阪シンフォニカーが近い将来、プロのオーケストラになることを期待して入団したのです。ところが内情はアマチュアオーケストラとまったく同様で、団費の負担、コンサートのチケット販売、楽器の運搬、楽譜の管理、練習場の確保、など団員が協力しながら運営していました。いわば職場として、仕事として入団したメンバーからは、いつになったらプロのオーケストラになるのだ、という不満が噴出したのです。
 団長の敷島博子さんは、この危機を乗り切るために、全団員へのアンケートを実施し、オーケストラ存続への意見を広く求めたのです。私は早稲田大学交響楽団、西宮交響楽団、に在籍した経験に基づいていくつかの提言をいたしました。すると、敷島さんから電話を頂戴し、指揮者の小泉ひろしさんが私の提言を読まれて喜ばれたことをお話しされ、団の運営に協力して欲しいと申し出られたのです。当時、大阪シンフォニカーのメンバーは大学卒業直後、とか在学生、とかでしたから31歳の私が団内2番目の年長者でした。音楽の専門教育は受けていませんでしたがオーケストラの経験は他のメンバーより少し多かったのです。それから練習後に開かれる運営会議に出席するようになりました。
 オーケストラは弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器、など異なる種類の楽器奏者が一同に会して合奏します。楽器の種類が異なることは奏者の立場もまた異なるということになります。楽器が違えば立場も違って考え方もまた違うのです。しかしそれぞれの奏者が違う考えでは良い合奏は出来ません。互いの違いを越えて気持ちを一つにする。そのために必要なのはお互いの意思疎通だ、と過去のオーケストラ体験で得た私の結論をお話し、オーケストラにとってコミュニケーションが何より大切だ、そのために団内新聞を発行しては、と運営会議で提案したのです。
 私の提案が賛同を得て、では誰が新聞を作るのか、ということになりジャンケンで負けた人が新聞を作ることになりました。結局、私がジャンケンに負けて、私が作ることになったのです。では、私が作りましょう。しかし私ひとりでは大変なので誰か手伝っていただきたい、とビオラ奏者の溝淵成美さんを指名しました。いつも快活に、積極的にオーケストラ作りに協力されていたからです。彼女は快く引き受けてくださって、ふたりで団内新聞を制作することになりました。
大阪シンフォニカー 団内新聞第1号(第10号まで発行しました)