序 章 はじまり |
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中学校の音楽鑑賞で聴いたビゼーの「アルルの女 第二組曲 メヌエット」に惹かれました。その優雅さに陶然としたのです。高校生になってクラシック音楽を聴くようになり、とりわけモーツァルトに耽溺しました。レコードを聴き、コンサートに行き、本を読み、明けても暮れてもモーツァルト、モーツァルト。大学に入学後、音楽鑑賞同好会に入りましたが余り面白くなくて、唐突にオーケストラに入ろう、と決めました。中学生の時「アルルの女」のメヌエットで聴き惚れたフルートを吹こう、と早稲田大学交響楽団の門を叩いたのです。ところが「フルートは経験者でないと」と断られ、結局、チェロを始めることになりました。当時、既に早稲田大学交響楽団は大学オーケストラの一方の雄で、極めてハイレヴェルでした。それまで楽器を演奏することが未経験であった私はアマチュア離れしたメンバーに気負けして、オーケストラに在籍中、とてもメンバーの一員としての誇りも喜びも持つことができませんでした。しかし、ワセオケ(早稲田大学交響楽団)での4年間は、ほかのなにをもってしてもかえがたい音楽経験を積む事ができました。 卒業後、神戸に帰り家業の呉服屋になりました。傍ら、西宮交響楽団、という市民オーケストラに入り、オーケストラや室内楽を趣味で続けました。老若男女、職業も様々なアマチュア演奏家が和気あいあいと合奏する市民オーケストラは、それなりに楽しかったのですが、次第に「もっと良い音楽を」という思いが嵩じてきました。その頃、大阪シンフォニカーというオーケストラが誕生したことを耳にしました。かつて西宮交響楽団で団友だったフルーティストがそのオーケストラに入団し「素晴らしいオーケストラよ。三木さんも入らない」と誘ってくれたのです。昭和56年1月、オーディションを受けて晴れて大阪シンフィニカーに入団することが出来ました。 大阪シンフォニカーは、その前年、それまでごく普通の主婦だった敷島博子さんがオーケストラを創りたい、という途方もない夢をいだき、本当にオーケストラを創ってしまった、という日本の音楽史上類例のない壮挙を成しとげて生まれた交響楽団です。オーディションで選ばれたメンバーは音楽大学の卒業生と在校生がほとんど大半で、将来、プロのオーケストラになる、という目的で創団されました。第1回の定期演奏会を目指して練習が始まったばかりでした。メンバーのひとりとして参加し、オーケストラの力量に圧倒されました。個々のメンバーの音楽性、演奏技術、その総体としてのオーケストラの合奏能力、表現性、それはかつて私が経験したことのない隔絶して高度なものでした。練習のたびに極度に緊張し、集中し、その結果、得られる充実感は私を有頂天にさせました。 昭和56年3月17日、「大阪シンフォニカー 第1回定期演奏会」が大阪森ノ宮ピロティーホールで開催されました。モーツァルトの「ハフナー交響曲」を幕開けに、モーツァルトの「戴冠式ミサ曲」、そしてベートーヴェンの「田園交響曲」。聴衆の盛んな拍手を受けて記念すべき「大阪シンフォニカー 第1回定期演奏会」は成功裡に終了し、関西の音楽界に「大阪シンフォニカー」は華々しくデビューしたのです。 |
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大阪シンフォニカー第1回定期演奏会 プログラム・コンサート写真 |