第四章  死 去

 母は、戦前戦後にかけて、三人の娘と、一人の息子を生みました。敗戦をはさんだ、日本にとって、すべての国民にとって、史上、もっとも困難な時代に、4人の子供を育てながら、商売に励み、その間、祖父、祖母を見送りました。祖母は、最晩年、認知症で、徘徊など、母は、その世話に大変、苦労しました。かつて、「恍惚の人」いう小説がベストセラーになった時、母は、「読みたくない」、と一言、言いました。余りにも、身につまされるのでしょう。
 親子6人、水入らず、で暮らせるようになった矢先、昭和35年、父が病床に臥し、翌、昭和36年1月28日、他界しました。私は、小学校5年生でした。授業の最中、呼び出され、父が亡くなったこと、妹を連れて、帰宅するように、告げられました。妹は、小学校1年生。怪訝そうな妹の手を握り、離宮道を、トボトボと歩きました。阪大病院の病棟を、車で、出て、見慣れない、国道2号線の沿線の風景に眼をやりながら、神戸に帰りました。自宅のすぐ側に着いた時、私のクラスメートのお母さんが、待ってくださっていて、それまで、気丈に振舞っていた母が、その方の姿を見た途端、泣き崩れました。
 父の死が、一体、何を意味しているのか。私にとって、母にとって、家族にとって、「丸太や」にとって。その時、私は、何も分かっていなかった。今になって、それが、どれほど大きな意味を持っていたのかが、多少とも分かります。大学2年生の姉、高校2年生の姉、小学校1年生の妹、そして、小学校5年生の私、その4人の子供を残して、そして、「丸太や」という店を残して、父が亡くなったことが、母にとって、どれほど大きな意味を持っていたのかを。母は、父の葬儀の翌日、店に立って、商売に励みました。
 父が亡くなった、昭和36年、という年は、日本という国が、戦後の混乱期を抜けて、高度成長に入る、助走の時期でした。日本全体が、上昇気流に乗った。父、という大黒柱を失った「株式会社 丸太や」、でしたが、母が社長に、叔父が専務に就任し、母は営業の先頭に立ち、叔父は経理を守り、二人三脚で、「丸太や」を上昇気流に乗せることが出来ました。昭和45年には、神戸市の都市再開発事業として、木造2階建てだった店舗を、地上3階、地下1階のビルに建て替えました。