千 一 夜 物 語
 「アラビアンナイト」を読みました。「千一夜物語」です。「千一夜物語」は、その名の通り、物語が、千一話あります。初めて読んで、驚きの連続です。豪華絢爛、波乱万丈。その壮大さは、眼もくらむばかりで、すべてが、私たち日本人の尺度からは桁外れです。一体全体、この違いは何なのでしょう。先ず、風土の違い、見渡す限りの砂漠、その不毛の地は、生命の痕跡すらとどめない。宗教の違い、すべてはアッラーの思し召しなのです。欲望の書だ、というのが読後感です。物欲、食欲、愛欲、ありとあらゆる欲望が、肯定され、希求される。その際限ないパワーの源泉は、何処に発するのか。彼らを取り巻く、自然の極限的な過酷さではないか。欲しなければ、決して、何ものも得ることが出来ない、人間の生命すらも。その過酷さを、激情を、私達は、知る由もないのです。


ドストエフスキー
 最近、ドストエフスキーを読み続けています。なぜ、ドストエフスキーを読み続けているのか、というと、ドストエフスキーは、なぜ、小説を書き続けたのか、ということを知りたいからです。省みて、私は、なぜ、呉服屋という商売を続けているのだろう。小説家、であれ、呉服屋、であれ、その、「なぜ」、の中に、仕事の中味が決まるように思えます。


初  夏
 初夏が、好きです。若葉の季節が。木々の緑は、人の一生を連想させます。春、幼児のような新芽が張り、夏、緑輝く青年の生気がみなぎる。秋、華やかにに人生の彩を深くし、冬、朽ち果てて大地に還る。木々の緑が、人の一生なら、初夏、萌出でたばかりの新緑は、少年少女。透き通るような新緑の向こうに、未来が輝いています。人生の秋を迎える身には、その輝きは、まぶしい。しかし、その輝きに、失いかけた生気を取り戻すのです。


漱  石
 最近、漱石を読んでいます。以前、読んでいないわけではありませんが、熱心な読者ではなかった。まだ、いくつかの作品を読み始めたばかりなのですが、驚くほど、面白い。百が百、理解できる、と言うわけではなく、百の内、十か二十か知れませんが、その程度には理解できる。理解できる部分が、すこぶるつきで、面白いのです。本当のところ、面白い、で済む話ではなく、実に深刻な話です。徳川封建社会から、明治近代社会へ、急激に変貌した日本の、ありとあらゆる問題を、漱石は座視しえなかった。解決しようとして、挫折した。今、私自身が、直面している問題もまた同じ。