巣  立  ち
 子供が誕生し、生まれたばかりの娘と初めて対面した時、私を捉えた感情は、湧きあがる喜びではなく、身の引き締まる緊張でした。授かった命、いたいけなこの子を育てていかなければ、という。といって、子育てらしい子育てをしたわけではなく、放任主義、というか、なかばホッタラカシでしたが、お地蔵様に見守れてか、お蔭様で大過なく育ってくれました。いつしか彼が出来て、この秋、目出度く結婚しました。大方の予想、というか、期待に反して、お父さんはアッケラカンとしていますが、実のところホッとしているのです。気にかけていないようで、やはり親、娘のことをいつもどこかで気にかけていたのです。学校を出て就職し、社会人としてそれなりの勤めをし、結婚して、いよいよ家を出て、新たな家庭を築いてくれる。親に与えられた大きな仕事を成しとげられた、と安堵しています。強がりではありません、念のため。


ブ  ロ  グ
 昨年、十二月一日からブログを始めました。日記帳ということで、毎日書いています。我ながらよく書くな、と感心しますが、まだまだ書けそうです。何を書いているかというと、音楽、本、映画、ときどき商売。音楽を聴いて、本を読んで、映画を見て、感じたこと考えたことを書いています。書いているのが神戸商工会議所のビジネスブログなので、ときには商売について書いています。なぜ書くのかというと、書きたいから。書きたいことが山ほど有るから。書きたいのは、伝えたいから。感じたこと、考えたことを。なぜ伝えたいのだろう、伝えたくなるのだろう。きっと人間はひとりでは生きていけないから。いつも誰かと心をつなぎとめていたいから。「人という字をよく見ると 人とのもたれあい」という言葉が好きです。


孟  子
 「孟子」を読みました。無茶苦茶、お「もうし」ろい、と思わずオヤジギャクを言いたくなるほど、面白かった。何が面白い、といって、2300年ほど昔の話なのに、まるで、まったく、今の話なのが、面白い。永遠の真理、は、不変、すなわち、普遍、なのです。
 「論語」は、大学生の時に読んで感動しましたが、「孟子」は、まだ読んだことがありませんでした。ナントナク、堅苦しそうで、読む気になれなかったのです。読んで、驚きです。孟子、という方は、確かに、巨岩のように、ちょとやそっとのことに動じない信念の持ち主のようですが、意外と人間くさい、というか、人情の機微も理解する人のように思えます。「鬼神は、敬して之を遠ざける」という孔子の言葉のように、儒教は、宗教的哲理、ではなく、道徳的倫理、なので、人間的といえば人間的なのです。
 「孟子」を読んで、あらためて実感したのは、いかに、私達日本人が、「論語」「孟子」の、儒教的倫理観を、精神構造の背骨に持ち続けてきたか、という事実です。いかに、私達日本人が、普段、何気なく使っている言葉が、「論語」や「孟子」の言葉であることか。「孟子」の冒頭から「五十歩百歩」が出てきて驚きでした。「孟子」の中から、私達日本人の日常語を、拾い出し、数え上げたら、きりがありません。
 という事実から類推すると、儒教的倫理観を思想的基盤としてきた中国は無論、その影響を色濃く受けてきた周辺諸国も、日本と同じ文化の国、「同文」と考えてよいのではないか、と感じました。


聞かんじゅう
 中学生の時の思い出です。教育実習に来られた先生方が、ご本人は、まだ大学生だったのでしょうが、私が話しをするのを、面白がって聞いてくださって、調子に乗ってお喋りしていたら、「機関銃」というニックネームを付けられました。「機関銃」のように、バリバリ、言葉を発射し続ける、という意味だったのでしょう。そう名付けられて、結構、私は悦に入ったのですが、今、思い返すと、「機関銃」、とは、相手構わず、一方的にまくし立てて、他人の話を「聞かんじゅう」という意味だったのかもしれません。なぜ、そう思い返したか、というと、今も、他人の話を「聞かんじゅう」だからです。