二十年以上も前のお話です。草木染の着物の魅力に引き込まれた私は、万葉集の歌の中に詠みこまれた草木で糸を染め、無地に織り上げた紬を作って貰えないかと思いつきました。「万葉秀歌秀色」と題して発表できないかと考えたのです。信州松本で草木染の「みさやま紬」を制作されておられる横山俊一郎さんにお会いする機会を頂き「素人の思いつきなのですが」とお話しすると、「両親の代から草木染で紬を織っていますが、私が作っているのは、お客様にお召し頂くための着物なので、着続けて頂くために、染めの堅牢度(けんろうど)、織りの強度が大事なのです。草木染で染めた色が何年経っても褪色(たいしょく)しないのかどうかは、何年か経ってみないと分らないのです。ですから両親が染めた草木染の色は、時の検証を経ているので大丈夫なのですが、やはり自分なりに新しい色を出したいと思って染めた色が、何年後も変らないで発色し続けてくれるのか、これはやっぱり時間が経たないと分らない。ですけれど両親のやってきたことをそのままやり続けるのではなく、自分なりの色を出したいと挑戦しているのです」とおっしゃいました。横山俊一郎さんのお話を聴かせていただきながら、素人考えとはいえ、浅はかな提案をしたものだと恥ずかしくなりました。生涯の仕事、天職として染織に取り組んでいる横山俊一郎さんにとっては、作品は商品であって、お客様の実用に供されるものであり、それは取りも直さず、実用に耐えねばならないのです。
 伝統とは「時」の検証を経て今なお脈々と受け継がれてきたものです。染織においても伝統の技法、意匠には時代を超えて受け継がれたものだけが持つ美しさ、豊かさ、確かさがあります。新規な技法、意匠は、その珍奇さにおいて耳目を集めうるかもしれませんが、時を越えて受け継がれるものかどうか、それは時を経てみなければ分らないのです。しかし今という時代は、時の経過を待つ余裕を失って、目先のことでしか判断できなくなっている。商売で言うなら、唯に安いとか、目新しいとかに飛びつかれる。使い続けて、五年後、十年後どうなのか、ということに思いが及ばないで使い棄てられる。しかし本当に良いものは使い続けてこそ、その良さが分る。作り手が誠心誠意心をこめて作った物は、使い続けて初めて本当の値打ちが分るのです。
 親子二代に亘って「みさやま紬」を作り続けておられる横山俊一郎さんは「ものづくり」に如何に「時」が必要か、重要かを身をもって学ばれたのでしょう。「時」だけが為しうる仕事。草木染の染料の基になる草木、樹木自体、「時」の経過なくして成熟しえない。「染めは化学、織りは物理」とおっしゃった横山俊一郎さんの言葉通り、染めの技術も、織りの技術も親子二代に亘る試行錯誤によってより高度に熟達されたのです。「ウチの紬はね、洗い張りをして縫い直したら、もっと着やすくなるんですよ。最後は綿入れにされたお客様が、生地の間から綿が出てこないって喜んでくださいました」と満面に笑みを浮かべてお話される表情には「時」の検証に耐えて「時」の経過と共に輝きを増す「みさやま紬」への自信と誇りに満ちていました。
 昨年の夏に横山俊一郎さんの工房を訪ねて信州に行きました。読書家の横山俊一郎さんのお話は織物づくりだけではなく、社会の在り方、人間の生き方に自ずと広がり深まります。それは横山俊一郎さんの「ものづくり」が、時間的にも空間的にも遠くを見据えながらなさっておられるからではないか。近視眼的、局地的視点では「本物」の「ものづくり」は出来ないのです。時空を超えて遥か遠くを見る、それは想像力のなせる業であり、想像力からのみ創造力は生まれ来たるのです。
三木 久雄