去る、5月7日、8日、石川県山中温泉に行きました。湯治遊山、などという優雅なものとは程遠く、研修です。5月24日(日)から、31日(日)まで、弊店で開催する、「継承 西陣坐佐織 佐竹司吉」、でご紹介する、佐竹孝機業店の作品、主として帯地、の製作工程を見学するために、山中工場を訪問したのです。
 朝、8時、神戸須磨の自宅を出発し、阪神高速、名神高速、北陸自動車道、を経由し、加賀インターを降りて、山中温泉へ。佐竹孝機業店山中工場は、山中温泉に隣接して在りました。事前に、佐竹司吉(かずよし)さんのお嬢様で、お父様とご一緒にお仕事をされておられる、佐竹美都子さんから、丁寧な道案内の地図をお送りいただいていましたので、それを参照しながら、工場を目指したのですが、もうすぐそこだ、と近づくと、佐竹美都子さんが、道に立って、出迎えてくださいました。
 到着したのは、12時半ごろだったのですが、佐竹司吉さんが、近所の蕎麦屋さんに案内してくださって、昼食をご馳走になりました。食事をしながら、佐竹司吉さんは、私と、家内と、息子に、どのような思いで、どのようなやり方で、織物づくりに取り組んでいるか、を熱心にお話くださいました。
 佐竹孝機業店、が制作しておられるのは、主として、西陣織の帯地です。「西陣坐佐織」と呼ばれる、その製品は、西陣織工業組合の認証を受けているのですが、生産は、石川県加賀市山中温泉菅谷にある山中工場でも行われています。「西陣坐佐織」が、西陣織工業組合の認証を受けているのは、佐竹孝機業店が、本社を京都市北区紫野西藤ノ森町に置き、山中工場が、加賀市織物協同組合に加盟しておられるからだそうです。 

   「これから、工場を見学していただきますが、動力織機が36台ほどあります。最盛期にはフル稼働していたのですが、現在は必要な台数だけ稼動しています。動力織機を使用していますが、動力に電気を使用しているだけで、基本的には、人間の手で織っています。山中工場に、これだけの動力織機を持っているお蔭で、今日まで、帯づくりが続けられてきました。京都市内だと、環境問題などで、これだけの工場は持てませんから。委託生産だと、量産しか出来ませんが、自社生産なので、一柄、一配色でも作ることが出来ます。今という時代は、お客様の多様な要望に応えられるかどうかが大切ですから」。
 早速、佐竹司吉さんに案内していただいて工場を見学させていただきましたが、まさに、工場で、高さが3メートルはあろうか、というジャガード織機が、30台ほど、所狭しと設置されていて、10台近くが、ドンドン、ガチャガチャ、と音を立てて稼動していました。女性の職工さんが、1台、1台、に付きっ切りで、糸を繋いだり、作業を続けておられました。
 佐竹孝機業店の制作される、「西陣坐佐織」の帯地の特徴は、実に、種々様々な、糸、組織、技法、を駆使されて、織り上げられる、ということです。稼動している織機には、それぞれ異なった、糸使い、織り方、が用いられています。佐竹司吉さんは、丁寧に、熱心に、どのような意図で、どのような技法で、制作しているのかを、説明してくださいました。「特注のご注文が多いのですが、それに対応できるよう、織機も、1台ずつ、個性があって、職工さんたちは、どの織機でも織りこなせるように技術を磨いています。効率を考えれば、分業化すればよいのですが、それでは職工さんの技術が向上しませんので。」
 ジャガード織機自体は、すでに生産されていないそうで、山中工場全体で、36台、織機が現存することが、貴重な財産です、と佐竹司吉さんがおっしゃっておられました。「織機の補修や改良は、自分たちでやっています。部品自体は、メーカーから調達できないので、工場にある別の織機から部品採りをしています。」と50年来工場長を勤められた横川利雄さんが説明してくださいました。言葉の端々に、織機のことは、熟知している、という自負が伺えました。織機を、自由自在に使いこなして、どんな模様でも織り上げられる、という自信に溢れていました。
 「本当に良いものを作る。それだけを考えて織物づくりに携わってきました。儲けよう、とか、有名になろう、とか、そんなことを考えていたら、良いものは作れません。良いものを作り続けてきたから、お客様に喜んでいただける。だから、今も、こうして、織物づくりが続けられるのです。」

 良いものを作り続ける秘訣、それは、山中工場に在る。工夫改良され、最良の状態に維持管理された織機、その織機を、自家籠中のものとして、自由自在に使いこなす職工さん。昨年、4月1日、京都市下京区新町綾小路下ル、に在る「船鉾保存会町家」で開催された、「佐竹司吉・寺田豊 二人展 花祭り」、の会場にお伺いして、寺田豊さんから、初めて、佐竹司吉三、美都子さん、父子をご紹介いただいた折、「是非、山中の工場にお越しください」、とお誘いいただいたのは、実にそのためだったのだ。山中工場を見学してもらえれば、「西陣坐佐織」が、どのような織物であるか、どのように優れた良品であるか、は自ずと理解いただける、そういうことだったのだ。
 生まれて初めて、織工場を見学した息子は、興味津々、感動で興奮していました。カメラを持参していたのですが、見るものすべてが珍しい息子に、佐竹司吉さんは、「どんどん、写真を撮ってください」、とおっしゃってくださいました。見る人が見たら、きっと、企業秘密が一杯なのでしょうが、真似ができるなら、真似てみなさい、真似なんて出来るものじゃない、という佐竹司吉さんの、「作り手」としての、自負と自信の表れだろう、と感じました。
 工場の見学を終えて、その後、体験コーナーに案内していただきました。手織りの織機で、帯地を織る、という体験です。3台、手機(てばた)が置かれていて、1台は、「櫛織り」、という、櫛を使って、緯糸(よこいと)を波柄に織り込む、という技法で、息子が挑戦しました。家内と私は、単純に、経糸(たていと)の間に、緯糸(よこいと)を織り込む、という作業でしたが、「右の耳と、左の耳が、違っているでしょ。もう少し、糸を寄せるように打ち込むのですよ」、と佐竹美都子さんに指導していただいて、少しはマシに織れるようになりました。「次は、草木染に挑戦してください」と、それも3種類の染液、ケヤキと、クロチク、クルミ、が用意されていて、スカーフの白生地を染液に浸し、明礬、鉄、石灰、の液に浸けると、爽やかな、黄色、桃色、薄緑色、に染め上がりました。
 山中工場では、蚕を育てる養蚕もされておられ、また、草木染もされておられて、ただ単に、帯を織る、というだけではない、糸をとることから、染ることまで、取り組まれておられます。おそらく、それは、糸の性質を、染の工程を、熟知することで、さらに、より良い織物が作れる、という経験に基づく信念であるのでしょう。山中工場を見学する私たちに、草木染と機織(はたおり)の体験をさせてくださったのは、「西陣坐佐織」の製品を、お客様に紹介しようとしている私たちに、「西陣坐佐織」が、何を大切にしているのかを、眼で見、耳で聞き、手で触れ、心で感じ、身体全体で体得して欲しい、という佐竹司吉さんの、強い、熱い、思いだったのでしょう。

 5月24日(日)から31日(日)まで開催する、佐竹孝機業店の作品展のタイトルを、「継承 西陣坐佐織 佐竹司吉」、と名付けたのは、佐竹司吉さんのお嬢様の、佐竹美都子さんが、お父様の事業を継承すべく、佐竹孝機業店に入社し、織物づくりに、誠心誠意、努力を重ねておられるからです。佐竹美都子さんは、かつて、日本のヨット競技のトップランナーでした。2004年に開催された「アテネ・オリンピック」の代表選手に選ばれ、金メダル候補として期待されました。オリンピック終了後、家業である、「西陣坐佐織」の制作に従事されておられるのです。
 今回、山中工場を見学させていただく中で、糸作りの部屋を案内していただいた時、佐竹司吉さんが、廊下を隔てた向かいの部屋を指差されて、「最盛期には、女工さんの子供さんたちを預かる託児所にしていました。保育所の先生に来ていただいて。娘も、一緒にお世話になっていました。」すると、佐竹美都子さんが、籠に入った糸巻きを手にとって、「これを廊下にゴロゴロ転がして遊んでいて、きつく叱られました」。そうなんだ。織機のガタゴトする音が子守唄、織機の道具が玩具、気が付くと、織物づくりの中で、大きくなっていた。身体の中に、織物の血が、脈々と流れている。「誰よりも、娘は、織物のことを知っています。身体で憶えましたから」。
 今春、息子の三木弦(ゆづる)が、「丸太や」に入社いたしました。私は、息子が呉服屋になることに、期待こそすれ、いささかの不安もありません。確かに、呉服業界を取り巻く状況は、かつてない厳しさがあります。しかし、私が、呉服屋になって36年、今ほど、お客様が、着物を愛してくださる、着物を楽しんでくださることは、過去にありませんでした。お客様の信用に応える、裏切らない商売を、きちっと心がければ、お客様は、きっと喜んでくださる、と確信しています。とはいえ、世間も、業界も、商売も、それほ甘くはありません。安穏として、安閑として、商売が続けられる、と考えたら大間違いです。それは、息子にとっても、佐竹美都子さんにとっても、同じでしょう。
 しかし、佐竹美都子さんは、きっと、あらゆる困難を乗り越えて、お父様の事業を継承されることでしょう。かつて、オリンピック、という世紀の大舞台で、全力を出し切った、その努力をもってすれば。息子も、息子なりに、きっと、やり抜いてくれるでしょう。その、第一歩を、今、踏み出そうとしている。「継承」への、第一歩を。