第六章  震災

 平成7年1月17日。私達にとって、それは運命の日。阪神・淡路大震災がこの地を襲ったのです。まさに驚天動地の大惨事。震災後、2日目に須磨の自宅から元町の店舗まで自転車で駆けつけましたが、その間の惨状は筆舌に尽くしがたく、46時中、ヘリコプターが空を飛び、街は、さながら戦場でした。なんとか倒壊をまぬがれた自宅と店舗ではありますが、一体これからどうなるのだろう、商売は、生活は、と不安で一杯でした。1週間後、ようやく自宅も店舗も電気が復旧し、瓦礫の片付けを始めました。2週間目ぐらいだったか、商店街からの要請もあって営業を再開したのですが、被災の状況下で呉服の商売が出来るのだろうか。夕方、「足袋と半衿を下さい。結婚式で留袖を着ますので」とお客様、この惨状の中でも呉服を必要としてくださる方がおられる、頑張らなくては、と自分自身を励ましました。
 ありがたいことに、震災直後から、友人、知人、問屋、同業者、から電話や手紙、来訪で激励を、支援を頂戴いたしました。とりわけ、全壊に近い自宅の補修にブルーシートを届けていただき、飲料水や食料をお持ちいただいたことは、命を救われる思いがいたしました。たくさんの方々から励まされ、一日も早く、商売を回復させなければ、と思案をめぐらしました。まず考えたのは、丁度、1ヶ月前、2度目の発表を終えたばかりの「丸太やオリジナルコレクションコンサート」です。
 最初に「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を発表した時点から、私の中では、いつか、全国で販売する機会が訪れないか、と考えていました。なぜなら、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」は、着物がお好きで、音楽のお好きな方に、是非ご覧頂きたい。確かに、弊店のお客様の中にも「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を喜んでお求め頂いた方はたくさんおられます。しかし、弊店のお客様だけを対象にしては、すぐに、行き詰まってしまう。もっと広く、より多くの方に「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を知って頂きたい。そのためには、大袈裟に言うと全国展開が必要だ、と考えたのです。
 といって、弊店のような小さな呉服屋には夢物語、と諦めていました。しかし、震災後の神戸の惨状の中で活路を見出す道はそれしかない。では、何をしなければならないのか、何ができるのか。その時、神戸商工会議所から、東京で開催する「神戸復興バザール」への参加の呼びかけがありました。被災した商業者に営業の機会を提供する、という支援活動です。様々な支援を頂ける、という内容ですが、参加費、旅費、宿泊費、の負担がありますし、本当に、東京で販売できるのだろうか、という不安がありました。しかし、せっかく「丸太やオリジナルコレクションコンサート」という弊店独自のオリジナル商品を開発し、いつか、全国で販売することを夢見ていた弊店にとって、もしかしたら東京で販売できるチャンスではないか。東京在住のクラスメートに電話で相談したら「東京に来いよ」の一言。その一言に背中を押されて「神戸復興バザール」に参加することを決意しました。
 「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を携えて東京に行こう、賽を投げるのだ、活路が開けるかもしれない。そう決心し、店を出ました。家に帰る電車の窓から街を眺めると、変わり果てた神戸の街。頭の中にメッセージが浮かびました。

はじまりは とても 単純(シンプル)でした
きものや帯にバイオリン そんなお洒落がしてみたい
でもどんなに探してもみつかりません
無ければ創ってしまおう
途方もない夢物語を叶えてくださる人との出会い
生まれたバイオリンのきものと帯
その素晴らしさに夢がふくらみました
ブラウスやスカーフ ブローチやイヤリング
染色や工芸の素敵なクリエーター達が
楽器や音譜をモチーフに創ってくださった
「丸太や オリジナルコレクション コンサート」
色と形の素敵なハーモニーが
神戸元町から聞こえて来ます

 再び立ち上がるのだ。立ち上がって、前に進むのだ。未来にかすかに光る、希望の灯りを目指して。
神戸新聞 1995年3月17日 「神戸救援市場」 東京新宿NSビル地下1階ホール