| 大学を出て神戸に帰り、呉服屋になりました。呉服屋になったのは家業だから、ということが一番の理由ですが、神戸の元町に店舗を構えている、ということも理由のひとつでした。当時、すでに創業70年を越える老舗でしたし、「丸太や」という店に誇りを持っていたのです。日本古来の建築、美術、文芸が好きで、日本の伝統文化につながる「きもの」にかかわる仕事として、呉服屋に夢を持って「丸太や」に入りました。 当初は何もかもが新鮮でした。商品の着物や帯も綺麗だし、先輩に連れられてお客様を訪問すると丁重におもてなし下さるし、展示会では高価な商品をお求めいただけるし、商売のイロハを楽しく学びました。最初は仕立て屋さん回り、1年が経った頃から商品を持って訪問販売を始めました。初めてお買い求めいただいたときは天にも昇る心地がしました。訪問するお客様も次第に増え、お座敷や応接間で雑談に花を咲かせながら着物や帯を広げて商売をさせていただきました。 呉服屋になって3年が過ぎた頃だったか、第一次オイルショックで世の中が不況になり、なかなか「きもの」が売れなくなりました。社長だった母や専務の叔父の顔が曇り、問屋からは「努力不足だ」と叱られました。業界新聞のコラムに「呉服の世界に『売れる』という言葉はない。ほっといて『売れる』商品ではない。販売員の『売る』姿勢が何より大事だ。『売る』ことでしか活路は開かれない」というような内容が書かれてありました。成る程、そうなんだ。積極的に販売攻勢をかけないと売れないんだ。 しかし、次第に「売る」ことに疲れてきました。「売る」ことがいつしか「売りつける」ことになりかねなかったのです。「タンスのこやし」という言葉どおり、お客様にとって必要でないものを無理に「売りつけている」という罪悪感。呉服屋であることが恥ずかしい。どんな仕事でも良い、他人に求められ、喜んでいただける仕事がしたい。呉服屋であることの誇りを失いかけていました。 その心の空しさを埋めたくて趣味の音楽にのめりこみました。早稲田大学で交響楽団に入団し、そこで始めたチェロを、神戸に戻ってから、西宮交響楽団に入って続けていました。オーケストラの運営に携わりチェロを抱えて東奔西走していました。「チェロと懸けてなんと解く。アイウエオと解く。その心は、カ行(家業)はその次」とうそぶいていました。身も心も、寝ても醒めても音楽。もっと良い音楽がしたい、と思い続けて、1981年、創設間もない「大阪シンフォニカー」に入団しました。 現在、列記としたプロのオーケストラとして活動する「大阪シンフォニカー」は、創設当時、プロのオーケストラを目指して音楽大学の卒業生、現役の学生が集まって結団していました。本業は呉服屋、という私は唯一人の変り種の団員でした。「大阪シンフォニカー」は、かつて体験したことのない高水準のオーケストラで、演奏についていくことは大変でしたが、感動の連続でした。そのオーケストラでビオラをひく女性にめぐりあえたことで私は再び呉服屋になることができたのです。 |