第五章  入 社

 昭和48年、私は、「株式会社 丸太や」に入社しました。丁度、その頃は、第一次オイルショックの直後で、ありとあらゆる商品が、店頭から消える、という異常な時代で、呉服も、お客様が、先を争って、お買い物をされました。私が入社した、最初の呉服展示会が、かつてない好成績で、母は、「商売は、こんなものと違う」、と釘を刺しました。そうは言われても、目の前で、高額な着物が売れていくのを見ると、やはり、商売はそういうもんだと思っても仕方ありません。
 しかし、その異常な好況、バブルは、すぐ弾けました。一転して、不況になった。「今日も、誰ともお話できなかった。口がクッツイテ、離れんようになる」、と母は嘆きました。見るに見かねた問屋さんが、「折角、一等地に店舗があるのですから、お客様に、気楽に買っていただける、財布とか、ハンカチとか、小物を店頭に並べられたらどうですか」、と助言してくださいました。それまで、高級京呉服、一筋で商売をして来た「丸太や」が、店頭に雑貨を並べたのです。すると、ビックリするほど売れる。母は、それまで、何万円、何十万円の呉服を売ってきた母が、眼を輝かせて、何百円、せいぜい、何千円の雑貨を、呉服を売るときと全然変わらない熱心さで、お客様にお薦めするのです。母は、傍目にも元気を取り戻し、店にも活気が戻ってきました。
 店に活気が戻って、一安心する間もなく、突然、叔父が急死しました。母が、父と結婚して、三木家に嫁いで、丁度、50年目でした。父が亡くなった後、父に代わって、「丸太や」の経営の要になってくれていた叔父。穏やかで、優しい、叔父でした。母は、「主人とは金婚式を迎えられなかったけど、正吾さんとは金婚式を迎えられたね」と喜んだ矢先でした。それまで、店の経理は、叔父が几帳面に管理してくれていました。叔父が、急病で倒れ、急遽、私が、経理を引き継ぎました。
 私は、叔父が亡くなる、2年前に結婚しました。家内は、中学校の教師で、教師を天職と考えていた家内は、結婚後も教師を続けていました。しかし、叔父が急死し、私が、急遽、専務として、「株式会社 丸太や」の経営責任者となって、状況が一変し、家内は教師の職を辞し、「丸太や」に入社し、呉服業に携わるようになりました。父親が銀行家であった家内にとって、商売は、身近な職業ではありません。家内にとって、母は、何よりの手本でした。お客様、取引先への対応の仕方、商品知識、販売方法、母は、教えるともなく、身をもって手本となりました。店に出る時は、年がら年中、着物だった母。その母を見習って、家内も、着物を着るようになりました。


三木久雄

家内 三木成美