序 章  結 婚

 母、三木キクヱは、大正4年1月16日に神戸で生まれました。母は、昔の話を、余り好んでしない方で、年老いても、いつも、前を見ていた、後ろを振り返りませんでした。唯、兵庫県立第二高等女学校に通っていたことは、ずっと、誇りに持ち続けていて、女学校の話は、時々、聞かされました。女学校を卒業するまもなく、17歳で結婚しました。当時、有馬道で、「丸太屋」、という呉服店を営んでいた、三木正太郎、私の父親が、母を見初めて、結婚を申し込んだのです。母の父は、娘を嫁にやることを承諾したのですが、母は、「行きたくない、断って」、と泣いて懇願したそうですが、「男の約束や。今さら、断るわけにはいかん」、と突っぱねられました。
 母は、美しい人でした。心根の美しさが、自ずと、表に出る、という美しさでした。母が、自分の美しさを、意識していなかった、というわけではないでしょう。しかし、それを、自慢する、という気持ちには、程遠かった。父が、母を見初めたのは、勿論、容姿の端麗さがあったことでしょう。しかし、それだけではない、内から、滲み出る輝きを、父は、見落とさなかったのでしょう。父は、筋金入りの商売人でした。戦前は、「丸太屋」の、若き当主、として先頭に立って商売に励みました。呉服屋、という商売柄、年中、着物で。泣くように嫁いだ母ですが、父とは、相思相愛の夫婦でした。
 母が嫁いだ三木家は、両親を筆頭に、男子5人、女子7人、の12人兄弟、(よく母は、冗談交じりに、たったの12人、と言っていましたが)、父は、その3番目の子供で、長男でした。当時、「丸太屋」は、有馬道に店舗を構えていました。有馬道は、湊川神社から、百数十メートルほど西の、南北に渡る通りで、平野、さらに、有馬に通じる道です。戦前、その西側一帯が、花街で、さらに西に行くと、歓楽街であった新開地でした。そういう場所柄、有馬道は、呉服屋が軒を連ねていました。「丸太屋」は、呉服店、銘仙部、おび店、と三店舗を構え、従業員も、20名近くを抱える大店(おおだな)でした。家族、従業員が30数名の大所帯で、母は、その大所帯の長男の嫁に入ったのです。それが、如何なる状態なのか、私を含め、戦後生まれの人間には、想像も出来ないでしょう。


新婚当時の母

新婚当時の父

祖父母兄弟

「丸太屋」社員一同