中学生のころ、僕は将来についてまだ決めかねていました。中学三年の夏、長野県上田市の小山憲市さんのお宅へ家族で伺いました。小山さんのお宅へは毎年伺っていたのですが、いつも僕は外を散歩していました。しかしこの時は何となく応接間に残り、父と小山さんが話しているのを聞いたのです。そこで二人が話していたのは、僕が身近にいながらも深く知ることのなかった呉服の世界についての話でした。父は呉服屋として進むべき商売の在り方を、小山さんはものづくりに掛ける熱い想いを、熱心に話していました。それは僕にとって新鮮な体験でした。
 僕が大人になったころ、はたしてきものの需要はあるのだろうか?跡を継いでもやっていけないんじゃないか?そういう不安があって、僕は家業を継ぐという決心を、なかなかできずにいました。そんな僕の不安が、二人の会話を聞いているうちに勇気に変わっていきました。こんなに熱い情熱を傾けてものづくりに打ち込むひとがいる。それを誠心誠意お客様に届けようとするひとがいる。そして、それを必要としてくれるひとが、確かにいる。僕は小山さんと父の話を聞いて希望を抱きました。そして、それを引き継ぐのが、僕の役目だと決心したのでした。
 今年八月、僕は小山さんのお宅へ向かいました。泊り込みで、小山さんにものづくりを教えていただくためです。これまでも、良いものがどのようにして生まれているのかを知るために、度々現場へ伺いました。今回はそれをさらに一歩進めて、ものづくりの現場を見るだけでなく体験することで、さらに深く理解しようと決心したのです。その話を長年お付き合いいただいた小山さんに話すと、「是非お越しください」とのお言葉をいただきました。「お客さんとしてでなく、研修生としてビシバシ指導するから、大変だと思うけどがんばって」というお言葉も頂き、身の引き締まる思いがしました。そうだ、遊びで行くわけじゃない。真剣にものづくりに取り組んでいる現場に飛び込んでいくのだから、覚悟を持っていこう。「工房はものすごく暑いから着替えはたくさん持ってきてね」とのことだったので、リュックにTシャツをたくさん詰め込んで、朝一番の新幹線に飛び乗ったのでした。
 上田駅に着くと、小山さんが待っていてくださいました。上田名物のお蕎麦を頂いた後、早速工房へ案内してくださいました。そこで一通り仕事の説明を受けました。小山さんは、僕が研修に来ると決まってから、どういう日程で何を学んでもらうか、考えてくださっていました。「ひとつのきものをつくるための工程はたくさんあって、全部を一度に理解することは難しいけど、今回はその基本的な流れをつかんでもらいたい。そして何より作り手がどんな思いできものを作っているかを感じてもらいたい」と、小山さんは今回の研修の目的を示してくださいました。そして早速研修を開始しました。


 繭から糸を取っただけの生糸は、そのままでは硬くてごわごわしています。生糸の表面をセリシンという物質が覆っているからなのですが、これを取り除き、しなやかで光沢のある糸にするのが「精練」という作業です。糸の風合いや色の染まり具合など、きものの良し悪しは、この「精練」の出来で大きく変わります。精練専門の業者もあるそうですが、きものの性格を決定する大事な作業なので、小山さんは自分で精錬もされます。精練には様々な方法があります。精練をする人は、皆自分なりの精練方法を研究しているそうです。小山さんも様々な材料を試し、温度や時間を変え、自分に合う精練方法を研究し、そして最終的に「なるべく糸に負担をかけない、最もシンプルな方法」をあみ出されたそうです。
 精練には精練機を使い、お湯と数種類の薬品を加えてセリシンを洗い落としていきます。温度に注意しながら、糸の変化を見極めます。精練を進めていくと、生糸が段々光沢を持ち、独特な匂いが漂いはじめます。焦って触りすぎると糸が痛む原因になるので、じっと我慢です。ある程度セリシンをふやかして落ちやすくしたら、薬品を加えて温度を上げ、すばやくセリシンを洗い落とします。糸は益々輝き始めます。 「今丁度いい具合になった」と言って小山さんは精練を止めました。精練もやりすぎると糸を痛めてしまうので、精練を止めるタイミングを見極めるのが大事なのだそうです。「すごくいい精練ができたね」と、小山さんはとても満足そうでした。精練は最も根本的な工程のため、精練をする人の多くは愛情をこめてこの作業に取り組むそうです。「本当にいい精練ができた」と、小山さんが何度も何度も嬉しそうに言っているのが印象的でした。


 精練された糸は、痛みにくく、織りやすくするために糊付けされます。練糸や細い紬糸は十分に糊を含ませて脱水し、乾かすのですが、紬糸の中でも真綿に近いものは、ただ糊を付けただけでは機に掛けることができません。そのため糊を付けたあと、力強く叩きつけて空気を抜き、糸をまとめやすくします。これは大変労力を必要とする作業です。こうしてしっかり糊付けされた紬糸は、織りあがって糊を落としたときに、もとの真綿のような状態に戻ろうとするので、フワっとした独特な風合いに仕上がるのです。


 糊付けして乾燥させた糸は、次に色を染めます。小山さんは科学染料と天然染料の両方を駆使し、自分が必要とする色を求め続けています。今回は胡桃を使った染色を体験しました。長野県は胡桃の産地で、街のあちこちで胡桃の木を見ることができます。染色には果肉の部分を使います。胡桃の果肉を鍋に入れて煮込むと、見る間にコーヒーのように黒くなります。この煮汁を加熱しながら絹糸をくぐらせると、褐色の色に染まるのです。染めムラにならないように満遍なく絹糸を回転させます。絹糸を胡桃で染めると、銅の地金のような輝きのある淡い褐色に染まっていきます。  胡桃で染めたあと、媒染という工程があります。これにより色落ちしにくくなり、また媒染剤の違いによって色合いに変化をつけられます。今回はアルミ・銅・鉄の三種類を使って媒染しました。媒染剤を溶かした溶液に糸を漬けると、さっと色が変わります。アルミ媒染は明るめの、ややピンクがかった色。銅媒染は幾分渋めに。鉄媒染はグレーに変化しました。




 生糸は最初束の状態になっていますが、これを機に掛けられるように糸巻きに巻き取る作業を「繰り返し」といいます。糸の束をセットすると自動で巻き取られていくので一見簡単なようですが、実は結構大変です。すんなり 巻き取れることもありますが、途中で絡まり、止まってしまうことがあるのです。場合によっては糸が切れてしまうこともあります。ここで焦ったりイライラすると糸を台無しにしてしまいます。糸は必ず一本に巻き取れるようになっているので、どんなに複雑に絡まっているように見えても、うまくほぐせばすんなり進んでいきます。とにかく、慎重に、丁寧に、我慢強く、糸を巻き取っていきます。最後まで無事に巻き取り終えると、ホッとしました。


 糸を巻き取り終えると、経糸の配列を決める「整経」という作業があります。経糸は一度機に掛けると直せないため、きものの性格を決める大事な作業になります。じっくり時間を掛けて考える作業のため、小山さんは一日の仕事が終わった後、静かな時間に整経機の前で何時間も悩みながら整経をするそうです。色や風合いの違う何十種類もの糸の中から、自分が作りたいきものをイメージして経糸を選んでいきます。「傍から見たらただ座り込んでぼーっとしてるように見えるかもしれないけど、頭の中はあーでもない、こーでもないって色々考えているんだよ。ここで妥協しちゃうと、最後まで妥協した中途半端なものになってしまうから、欲しい色の糸がないときはもう一度染めることもある」と小山さんは整経の重要性を語っていました。


 経糸を整経し、機に繋ぐと、いよいよ織りに入ります。小山さんの工房では手機と機械織機の両方を使い、その特性によって織るものを選んでいます。今回、丁度手機で織る予定の名古屋帯の生地に若干余裕があったので、それを使ってコースター制作を体験させていただきました。機を織る作業自体は単純ではありますが、ピアノが音を鳴らすだけなら簡単だけど音楽を演奏するのは非常に難しいのと同じで、反物を織ることは簡単ではありません。微妙な手加減で糸の張り具合や密度が変わってしまい、均一に織っていくことは至難です。織りの良し悪しは耳を見るとわかるそうで、僕の織った部分は耳が不ぞろいになってしまいました。なかなか奇麗に耳を揃えるのは難しいものです。 「織物も想像力が大事なんだよ。緯糸の入れ方で個性的な織物にできるから、自分の想像力で好きな柄を織ってね。ここにある糸は自由に使っていいから」と言っていただいたので、あつかましくも自由に糸を使わせていただき、なんとかコースターらしきものを織ることができました。悩みながら織り進めたので縞の幅もまちまちになってしまいましたが、自分で織り上げたものを見ると、なんとも愛情が湧いてきました。

 三泊四日という短い間でしたが、その中で小山さんは丁寧に工程を説明してくださり、基本的な工程を体験させていただきました。どの工程にも小山さんの長年の研究成果が活かされていて、強いこだわりを感じました。 「百パーセント自分の思い通りのきものをつくるためには、全ての工程で百パーセントの仕事をしないといけない」と小山さんは言います。小山さんはどの工程でも「すごくいい具合にできた」といって納得しながら作業を進めていました。この納得こそ、ものづくりにおいて大切なことなのだと思います。自分の納得のいく仕事をして、自分のつくったものに納得すればこそ、よいものが生まれるのだと思います。素材が自分の手によって少しずつ加工され、段々と自分がつくりたかったもののかたちになっていくのは感動的な体験でした。一つずつ工程を進めていく中で、様々なアクシデントがありました。糸はよく絡まるし、切れてしまうこともあります。
「どんなに完璧を目指しても、必ずアクシデントはある。それをカバーする知恵と技術が大事なんだ」という小山さんの言葉は、織物の世界を超えて、人生訓のように心に響きました。
 小山さんには織物の体験だけでなく、上田での暮らしも色々体験させていただきました。仕事の合間に川へ魚を釣りにも行きました。残念ながら突然の雷雨で釣ることはできませんでしたが、上田の自然の中へ入っていくことはすがすがしい体験でした。蜂の子も食べてみました。クリーミーでとても美味しかったです。小山さんの奥さんは料理上手で、毎日美味しい食事をいただきました。小山さんとは一緒にお風呂に入り、色んなことを話しました。仕事のこと、家族のこと、人生のこと…。僕の思っていること、感じていることを、小山さんは受け止めてくださったし、小山さんも僕に色んなことを話してくださいました。小山さんが僕に体験させてくださったのは、きものの生地を織ることだけでなく、きものが生まれる背景でした。それは上田の自然であり、あの街に流れている時間であり、そこで生きる人たちの生活、文化なのだ、と思います。その中で、日々黙々と研鑽を積み、たゆまぬ努力をつづけてこられた、その結晶として、きものが生まれる。
「きものを初めて着るひとも楽しく着られて、きものにこだわりのあるひとにも満足してもらえる、そんな深さのあるきものがつくりたい」と小山さんは自身のものづくりの目指すところを語ってくださいました。どんなひとも受け入れてくれる小山さんのきもの。小山さんのきものを羽織ったときに感じる、あの何とも言えない温かい、優しい印象は、上田の自然の、そこで培われた小山さんの人柄の、包容力なのかなと思います。

 小山憲市さんは、三十日(土)と三十一日(日)の二日間、遠路、信州上田からお越しくださいます。皆様、万障お繰り合わせの上、小山憲市さんご本人とそのすてきな作品に、ぜひお出会いください。お待ちいたしております。