「江戸小紋」と一般に呼ばれている着物は「小紋型」という型紙で染められています。「鮫小紋」をその代表とする「江戸小紋」は江戸時代、武家の裃(かみしも)に用いられたのが始まりで次第に庶民の着物にも広がっていきました。「江戸小紋」を染めるのに使用される「小紋型」は当時から今日に至るまで伊勢の白子という所で生産されています。伊勢の白子は江戸時代、紀州藩の領地で、そこで生産される「小紋型」は「伊勢型」とも呼ばれ紀州藩の専売品として保護育成されてきました。
 今から17年前、当時「江戸小紋」の専門問屋であった「珍粋」にお世話いただいて江戸小紋展「伊勢白子 型紙を彫る」を開催いたしました。「江戸小紋」の命ともいうべき「伊勢型」をテーマに伊勢白子の型彫師、一尾欣樹さんに弊店にお越しいただいて伊勢型紙を実際に彫刻していただきました。事前に夫婦で伊勢白子の工房をお訪ねし仕事振りを拝見しながら伊勢型紙彫刻について拝聴いたしました。それはまさに神業ともいうべき職人芸の極致でした。人間の能力を超えた集中力で取り組まれるその仕事は真夜中でしか出来ない過酷な労働でした。以来、一尾欣樹さんとのご縁は絶えることなく、平成5年に開催した母の呉服屋人生60年の記念展「ひとすじの道」では記念品として母の自筆の「寿」という文字と「三木キクエ」という名前を一尾欣樹さんにそっくりそのまま型紙に彫って色紙に制作していただきました。また毎年暮れには翌年の干支の色紙を贈ってくださいました。
 弊店が音楽をモチーフにした「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を始めたあと、いつか一尾欣樹さんにモーツァルトの肖像のシルエットと自筆のサインを型紙に彫って色紙を制作していただきたい、あのときの母の記念の色紙のように、と願っていました。平成11年の暮れ、いつものように一尾欣樹さんから干支の色紙が届けられ、お礼のお電話を差し上げてその願いをお話したら「いいですよ。やりましょう。」とおっしゃってくださいました。年が明けて、頂いた色紙を棚に飾りモーツァルトの色紙を制作していただくための資料を用意しようとした矢先、一尾欣樹さんの奥様からお手紙が届きました。一尾欣樹さんが年が明けて間無に亡くなられたこと、弊店にお送りいただいた色紙が一尾欣樹さんの最後の作品であったこと、そして生前の交誼への謝意が書かれてありました。余りに突然のこと、ついこの間、モーツァルトの色紙をお願いしたばかりなのに。昨年夏、永川軍次さんが絞り染めのTシャツで一尾欣樹さんがかなえてくださらなかったモーツァルトの夢を実現してくださいました。
 弊店で開催した江戸小紋展「伊勢白子 型紙を彫る」をお世話してくださった江戸小紋専門問屋「珍粋」も震災の年、廃業され、以来、弊店が江戸小紋を本格的に取り上げる機会はありませんでした。しかし、三年前、まるで運命の扉をたたくかのように三度も弊店を訪ねてくださった綴れの服部秀司さん、絞りの寺田豊さん、おふたりのご縁から昨年9月に「伊勢型小紋」の大野信幸さんとの出会いを頂きました。大野信幸さんは長年に亘り「伊勢型」を用いた「小紋」を染め続けておられる伝統工芸士です。所謂「江戸小紋」は江戸時代に生まれた「小紋」という意味なのですが、巷間「江戸小紋」は東京染、という印象が強く、「京小紋」として京都で「小紋」を制作されておられる大野信幸さんは「伊勢型」を用いた手染の「小紋」、という意味合いでご自身の「小紋」を「伊勢型小紋」と名付けておられるのです。
 昨年9月にご紹介いただいてから既に三度、京都三条堀川にある「染工房 大野國」をお訪ねしました。板場と呼ばれる染工房には7メートルもある板に白生地が表裏折り返して糊付けされていて台の上に載せられています。「小紋型」は小さな紋様の型紙という意味ですのでせいぜい20〜30センチの幅しかありません。その型紙を紋様がずれないよう寸ぷんの狂いもなく白生地の端から端まで順送りしながらヘラで糊を載せていくのです。糊付けの済んだ白生地を色糊で染めると糊の付いた紋様が白く染まらないで浮きあがってくる。「伊勢型小紋」ならではの精緻で清潔な「粋」の世界が生まれるのです。
 「伊勢型小紋」は大野信幸さんのような染職人と一尾欣樹さんのような彫職人の両方の技から生まれます。技は技を知る。「この鮫小紋の伊勢型は人間国宝の六谷紀久男さんが彫られたものです。この木賊(とくさ)の型紙はやはり人間国宝の児玉博さんの作品です。素晴らしいですね。こういう伊勢型を手に入れると良い仕事をしなくては、と意欲が湧きます。」大野信幸さんは慈しむように人間国宝(無形文化財保持者)の型紙見せてくださいました。至芸は至芸によって生かされ、伝え続けられる。「あ、これは私が彫った型だ。すぐ分かります。うれしいですね」一尾欣樹さんの言葉が想い出の底から聞こえてきます。
 「伊勢型小紋」も今や風前の灯かもしれません。「江戸小紋」もどきの機械染が大量に出回り手染の本物は極わずかしかありません。大野信幸さんは名工が彫った「伊勢型」を伝え続けるために、手染ならではの「伊勢型小紋」を作り続けるために、骨身を惜しまず努力されておられます。会期中、大野信幸さんが会場にお越しくださってお客様のご要望に合わせてお好みの「伊勢型」をお好みの色で一反から染めてくださるそうです。弊店も今回、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の新作として「伊勢型小紋」名付けて「ハーモニー」を制作して頂いています。出来上がりが今から楽しみです。