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京都は北に上がるとなぜか時雨やすくなります。
北大路新堀川通、一休和尚の大徳寺のま隣にある「菱屋六右ヱ門」
高垣織物にはじめてうかがった日も急に小雨がパラつきだして
資料館の駐車場に車を停めて裏手にある織工場まであわてて駆けて行きました。
玄関を入った途端ガターン、ガターンと機の音。
上がり口のすぐ横の部屋で織上がった生地の裏糸を刈り込む作業をしていました。
機の表は細やかで穏やかで華やかですが裏には想像もつかない程の色糸が所狭しとはっ
ています。
まるでバリカンのようなもので裏糸を刈り取る作業は思わず六甲牧場の羊の毛を刈り取
る場面を想像してしまいました。 高垣織物の大杉さんに案内していただいて二階へ、 「絣」「紬」「風通」「お召」「朱珍」、 織の技法を駆使したきものや帯が展示されていました。 あるものは古典に範をとった意匠、あるものは現代の感性にたったデザイン、 そのすべてに「西陣」の伝統が息づいています。 お茶をいただきながら話をしている間もガターン、ガターンと機の音。 「織っているところを見せてください」と階下へ。 通路をへだてた別の部屋が織場。 紋紙を使ったジャガードの織機に能衣裳柄の着尺地がかかっていました。 「今でも紋紙を使っておられるのですね。」 「うちはそうですが、少なくなりましたね。 だいいち西陣で機織りをしているところが少なくなりましたから。」 何度見ても織物の現場は複雑で、 どうなって織られていくのかを考えると頭が痛くなります。 「今は売れる売れない、なんて考えないですね。 そんなこと考えたらモノは作れませんから。自分が作りたいもの、 好きなものを作る。 好きなものを作っているわけですから売れなくても構わない。 売れ残った商品に埋もれて死ねたら本望です。」 そう屈託なく話される大杉さんの表情は冴々としています。 今どきモノを作り続ける人達に共通した腰が座った思い切りをつけた覚悟のようなもの 。 帰り際玄関の土間に新調された紋紙が届けられていました。 少なくとも今はまだモノを作り続ける人達がいる、 その人達に感謝の気持ちでいっぱいになりました。 |
『西陣』 |
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「西陣」の名の由来は応仁の乱の時、西軍の総大将山名宗全が陣を築いたことにより ます。 この地は五〜六世紀頃に帰化人秦氏が絹物を織りはじめて以来 機業地として栄えましたが応仁の乱で焼け野原となった後に絹織物の産地として再興さ れ現在に至っています。 行政区域として「西陣」という地名があるわけではなく、 京都市街北西部、南は丸太町通り、北は北山通り、東は烏丸通り、 西は西大路通りに囲まれたあたりに西陣織にたずさわる業者が多いため通称 「西陣」と呼ばれています。 | ||
『お召(おめし)』 |
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「お召縮緬」の略。 先染めした糸に撚りをかけて強撚糸に仕上げ織り上げたあとぬるま湯に浸し撚りを戻し てシボ立ちをしたもの。 通常縮緬が白い糸の状態で織り上げるのに対して先染めした糸で織るのが特徴。 「お召」の名称は徳川十一代将軍家斉が特に愛用して御召料としたことから名づけられ たといわれる。 | ||
『風通(ふうつう)』 |
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普通の織物の断面は一重ですが風通織は「二重織」 ともいわれるように二重になっていて表と裏と異なった色糸を用い表と裏の模様が反対 の配色になるように織られています。 | ||
『朱珍(しゅちん)』 |
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経糸(たていと)と緯糸(よこいと) が一本づつ交互に織り込まれる平織に対して緯糸何本かをとびこえて経糸が織り込まれ る織組織を朱子織 (しゅすおり)といいます。 朱子織の組織に模様をあらわす色糸を織り込んだものが朱珍です。 |
いくつになっても心の弾むひなまつり 春待ち遠しい今日この頃 わずかばかりのおもてなし ひととき童心にたちかえってお遊びください |
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