第一章  子 供

 私は、一人息子ですが、三男です。兄が、二人、いたのです。二人とも、幼くして、亡くなりました。母は、結婚して、すぐに、男児を授かりました。長男の誕生が、母にとって、父にとって、どれほど大きな、喜びだったことでしょう。「丸太屋」の跡取り息子でもあったからです。しかし、兄は、3歳で、あえなく、亡くなったのです。そして、次に生まれた、次男の男児も、3歳で亡くなりました。母の哀しみは、どれほど大きかったことか。そして、どれほど辛いことであったか。亡くなった二人の子供は、「丸太屋」の跡取り息子だったから。私が、「丸太や」に入って、とあるお客様に、「実は、私は、三男なんです。兄が、二人いたのですが、幼くして亡くなったもので」、と申し上げると、その御婦人が、沈痛な面持ちで、一言、「お母様は、ご苦労なさったのね」、とおっしゃいました。私は、その時、初めて、我が子を、相次いで亡くした母が、どのような状況に置かれていたのか、を理解したのです。我が子を、亡くす、ということの哀しみに、さらに、長男の嫁、という立場の辛さを。
 長男、次男を、幼くして、亡くした母でしたが、戦争の最中、女児を、相次いで出産しました。長女、次女、です。二人の子供は、順調に成育し、昭和25年には、三男として、私が生まれました。まさに、待望の跡取り息子、の誕生でした。私は、幸いにも、病弱ではありませんでした。しかし、幼時には、きついアレルギー性の皮膚病で、全身に湿疹が出来ていたそうです。「目と鼻と口をのけて、あとは全身、包帯やった。眼を離したら手でかきむしるから、籠に手を括っていたぐらいやった。」と母は、子育ての苦労話を、懐かしそうに話してくれました。私は、久雄、なので、「久坊(ひさぼう)」と呼ばれていたそうですが、「くさぼう、と冗談を言っていた」そうです。皮膚病のことを「くさ」と呼んでいたからです。
 父は、私が、生まれて、大いに喜んだことでしょうが、長男、次男、を幼くして亡くしたので、私一人が男児であることが心配で、もう一人、男児を生んでおきたい、と母は4年後、もう一人、子供を出産しました。末っ子になる妹です。父の危惧は、取り越し苦労で済み、私は、大きな病気に罹ることもなく、成長しました。私にとって、父は、コワイ父、でしたが、やはり、私には甘かったそうで、「久雄は、いったん欲しい、と言い出したら、聞かん子や」とボヤキながらも、私の言うことは、いつも叶えてくれました。小学校3年生の時はカメラ、4年生の時はトランジスタ・ラジオ、5年生の時は顕微鏡、を買ってくれました。


幼くして亡くなった兄

家族旅行