どちらかというと夏は嫌いではありません。子どもの頃は家から海水パンツ(と言ってました)に着替えて、歩いて十五分の須磨海岸に毎日のように泳ぎに行きました。家に戻って行水で身体を流し、それから頬張ったスイカの美味しかったこと。蚊取り線香の漂う畳の上で昼寝をしました。夜はゆかたに着替えて近所の縁日に。父に手を引かれ、裸電球の光の中を鞍馬天狗のお面や綿菓子をねだって「久雄はあれ買うてこれ買うてと言い出したらきかん子や」。

 呉服屋の贔屓の引き倒し、ではありませんが、当世着物事情はなかなかなかの盛り上がりです。十数年前までは、街で着物姿を見かけると、呉服屋の奥さんか、着付け教室の先生か、呉服展示会のマネキン(販売員)か、ぐらいで、すぐそれと知れました。ところが昨今、弊店のお客様に限らず、本当に着物でお洒落を楽しむ方が増えて、元町界隈も素敵な着物姿にしばしば出会うことができるようになりました。この激変振りは呉服屋としては本当に有難いことですが、地殻変動のきっかけは多分間違いなく「ゆかた」です。
 十年ぐらい前からでしょうか、毎夏、八月の初めに開かれる「みなと神戸海上花火大会」の当日、昼を過ぎてから突然、「ゆかた」の女性が、どっと元町界隈に繰り出してきたのです。年々、その数は増え、男性も「ゆかた」で繰り出してきました。なぜ「ゆかた」なのか。日本の夏の風物詩「花火」には「ゆかた」が似合う。着物離れ、と言われながら、やっぱり日本人なんだ。どこかで着物に憧れている。ところが、通常、着物を着ようとすると、先ず、購入という段階で尻込みしてしまう。着物一式を揃えようとすると、着物に帯、襦袢に帯締め、帯揚げなどの和装小物、が必要で、着物、帯、襦袢、にはそれぞれ、表地、裏地、仕立が必要で、着物一式総計では結構な金額になってしまうのです。さらに、いざ着物を着ようとすると、これがまたなかなか大変で、へこたれてしまうのです。その点「ゆかた」は「ゆかた」一式でもほどほどの金額で、着るのも随分簡単で、私でも着られる。「ゆかた」という列記とした着物で着物体験をすると「着物の私、素敵」ということに気がついて、もっともっと着物がすっかり定着しました。
 じゃあ、かつてなぜそうではなかったのか、自戒をこめて申し上げますと弊店のような呉服専門店と称する呉服屋が本気で「ゆかた」を取り扱っていなかったからです。夏だけ、という丸っきりの季節商品で、販売に手間がかかる割りに売上は大きくない、商売として旨味が少ない、というのが本音でした。しかし「ゆかた」ほど着物入門にうってつけの商品はない。弊店も真真剣で「ゆかた」をやります。それも「思いっきりオリジナル」。