あのとき、迷いを吹っ切れたのはなぜだろう。やっぱり小山憲市さんをたずねて信州上田に行こう、と決めたのは。今、思い返すと、その決断は、私の呉服屋人生に大きな転機をもたらしました。
 震災の翌年、越後小千谷の織物作家樋口隆司さんの個展を弊店で開催いたしました。当初、震災の年に開催する予定だったのですが思いがけない惨事に延期を余儀なくされたのです。樋口隆司さんのシンプルでモノトーンな織の世界は好評で翌年も続けて開催していただいたのですが、その折、樋口さんが「信州上田の小山憲市さんという方がとても良いものを織っておられます」と教えてくださいました。小山憲市さんのお名前はそのとき初めてお聞きしたのですが小千谷に帰られてすぐに樋口さんは小山憲市さんが染織新人展で大賞や奨励賞を受賞された作品の写真をお送りくださいました。弊店で開催した樋口隆司さんの二度目の展示会「雪国の詩―組曲紬ちりめん」は「家庭画報特選きものサロン'97春号」に紹介していただいたのですが、奇しくもその号の特集「信濃路・春の旅―信州の染め織り」に小山憲市さんその人と作品も紹介されていたのです。縁、というものの不思議さを感じ、思わずその紙面に掲載されていた小山憲市さんの電話番号をダイアルしました。電話口に出られた小山さんご本人の声はとても若やいでいて、電話をした経緯をお話すると、小山さんもその前年の秋に出版された「家庭画報特選きものサロン’96秋号」に「全国個性派呉服店」として紹介された弊店の記事をご覧になっておられて「こういう呉服屋さんがあるのだ、と読ませていただきました」とおっしゃってくださいました。いよいよ縁の深さを感じ一度上田にお訪ねしたい、とお願いすると「是非お越しください。お待ちしております」と応えてくださいました。
 その年の夏、家族で信州に行く予定を立てていました。友人が主宰する「清里マンドリン音楽祭」に参加し、その後、松本市内のギャラリーを借りて「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の商品を販売することが目的です。地図で見ると上田は松本から車で一時間程度の距離で、もう一泊して足を伸ばせば上田に行ける。丁度良い機会だ。上田に行こう。一旦はそう決めました。ところが冬から春になって急に景気が悪化したのです。その直接の原因は消費税が上がったことがきっかけでしたが、金融不安など日本経済全体が悪化の一途をたどりました。震災の後、店と家の再建に銀行から融資を受けましたので今後その返済が大きく負担になることは火を見るより明らかです。融資を完済できるだろうか、呉服屋を続けることができるだろうか。不安が一挙に広がりました。余分なお金は一切使えない。松本から上田に足を伸ばせば、と軽く考えたけれど、そのために一泊余分に宿泊しなければならなくなる。その宿泊費を考えると上田に行くのは止めよう、という気持ちになりました。行くのか、行かないのか、春が過ぎ、夏が近づき、答えを出さなければならないときがきました。心を決め、受話器を取りました。あのとき、迷いを吹っ切れたのはなぜか。きっとそれはご縁を感じたからでしょう。小山憲市さんとの深いご縁を。頂いたご縁を大切にしたい。
 八月の初めに旅行に出ました。全国各地から音楽愛好家が参加される「清里マンドリン音楽祭」では「丸太やオリジナルコレクションコンサート」は好評で、販売も好調でした。しかし翌日の松本での発表会は来場される方がわずか数人でした。夕方、展示した商品を片付け上田に向かいました。ビジネスホテル程度で結構ですから、と小山さんにお願いして予約していただいたホテルは着いてみるとそれなりのホテルです。八時を過ぎていたでしょうか、夕食をホテルの食堂でとるのは勿体無くて外に食事に出ました。ほとんどの店が閉まっていてやっと見つけた蕎麦屋に入りました。家族四人が入ると店の半分は埋まってしまう小さな店でした。注文した蕎麦を食べながら心の中で、なんとしても店を守りぬかねば、と気持ちを引き締めました。
 翌朝、ホテルに小山憲市さんが迎えにきてくださいました。きものサロンに掲載されていた写真や電話でお話して想像していたより精悍で、モノづくりに携わる人の精力を感じました。しかし、ご案内いただいた自宅の応接間で聞かせていただいのは想像だにしていなかった思いがけないお話でした。小山憲市さんはお父様の代から織物作りに従事されていたのですが問屋からの注文が年々減少し、副業にベルトコンベアのベルトの生産もされるようになりました。ところが海外からの輸入に押されベルトの注文も無くなり着物はさらに注文が減ってこのままでは生活できないという状態に追い込まれたのです。やむなく織物業の廃業を決意された小山さんは、折角ここまで織物作りに励んできて、最後にそれまで培ってきた織物作りの全てを注ぎ込んだ着物を作ろう、それまでは問屋の注文で作ってきた着物を、自分の思いのままに作ろう、と一枚の着物を織り上げられました。思い出に、と染織新人展に出品されたところ奨励賞を受賞されたのです。もしかしたら創作活動として織物作りが続けられないか、と考えられて、翌年、再度染織新人展に出品されたところ今度は最高の賞である大賞を受賞されたのです。一旦は窮地に追い込まれた小山憲市さんは創作という道に活路を見出されたのです。
 起死回生の物語に感動し、染織新人展の受賞作品をはじめ小山憲市さんが織り上げられた着物を見せていただいて是非弊店で個展の開催を、とお願いしたところ「一年お待ちいただけますか。がんばって良いものを作ります」とおっしゃっていただきました。翌年の九月、満を持して開催していただいた「織ふたたび―小山憲市」はかつてない反響をいただき多数のお客様にご来場いただきました。以来、ほぼ一年半ごとに個展を開催していただきましたが来る三月四日(土)から十二日(日)まで六度目となる「信濃路の春―小山憲市 織個展」を開催いたします。三月四日、五日の二日間、遠路上田から小山憲市さんが弊店にお越しくださいます。
 小山憲市さんの織物になぜ心打たれるのだろう。厳しさに耐え、ひたすら誠実にモノづくりに取り組まれる。いよいよ個展が近づき電話をさしあげると「今、丸太やさんの個展に向けてがんばって作っているところです。この冬は本当に厳しい寒さで、凍てつくようですが、ここにきて少し楽になってきました。春が待ち遠しいですね」。そうだ、いつか必ず春が来ることを信じて機を織り続けておられるのだ。あのとき、もし迷いに負けていたら小山憲市さんとのご縁はつながっていなかった。小山憲市さんは丸太やに信濃路の春の息吹を運んでくださったのです。