この道を車で走るのは三度目なのにまるで初めてのような印象、ワァー狭い、こんなに狭い道だったの。車一台が通り抜けるのがやっとの細い道。芳賀信幸さんの藍染工房「芳心庵」のある京都市左京区広河原はここも左京区なのかと驚くほど京都市内中心部から遠く離れた所にあります。 堀川通を北に上がって上賀茂神社、京都産業大学の側を通り過ぎ、貴船鞍馬がもうそこというあたりになると急に道幅が狭くなり鞍馬を通り過ぎるとまるで山道、細く曲がりくねった道を登って行きます。窓を明けると森閑とした杉木立から微かに杉の香、道に沿って流れる渓流のせせらぎ、鳥の鳴き声。 対向車に注意を怠らないようにしながら清々しい山間の空気をしっかり楽しみながら車を走らせました。つづら折の急な坂道を登りきるとそこは花背峠、一変に視界が広がります。ゆるやかな坂道を下ってゆくといかにものどかな花背村に入ります。人家の軒先に触れるように走りぬけ左に折れると京北町、美山町に向かう三叉路を右に曲がってさらに奥に分け入るとようよう広河原にたどりつきました。名神高速の京都南インターを出て一時間半のドライブ。
 広河原の工房を最初に訪れたのは震災の前の年、平成六年四月のことでした。その前年の秋、横山喜八郎先生のご紹介で京都市美術館で開催された「現代工芸美術展近畿展」を見学に行きました。出品された作品はどれも力作ばかりで圧倒されましたが見続けてゆくうちに次第に疲労を感じ始めたその時「シンクロニシティ」と題された藍染の作品が眼に留まりました。藍でシンプルにグラデーションに染められたその作品は静に訥々と語るでもなく語らないでもなく、しかし私の心にしみじみと伝わるものがありました。 いつかこの作者の個展を開催したいと願望しました。芳賀信幸というその作品の作者の名前を深く記憶に留めました。その後、縁あって芳賀信幸さんの個展を弊店で開催することになり翌年の四月に広河原の工房を訪れたのです。
 スキー場がすぐ側にあるという場所柄、四月というのに軒先に雪が残っていて市内中心部からはるか遠くに来たことをあらためて実感しました。ログハウスのような木造の工房は入り口が土間で藍甕が四つ地中に埋められています。その奥が居間になっていて書棚には染織関係の本がびっしり納められています。 奥様が香ばしい蕎麦茶に山菜の手作りの料理でおもてなしくださったことがとてもほのぼのと心に残りました。夜、光るものは星と月ときつねの目、というお話に現代工芸美術展で拝見した作品の秘密が解けたように思いました。
 二度目に訪れたのは平成七年八月、震災の七ヵ月後でした。震災の後、芳賀信幸さんから届いた大きな荷物には軍手や雑巾、レトルトカレー(激辛カレーで激震の洒落かと笑ってしまいましたが)など雑貨品や食料品がいっぱい入っていて震災後の状況を思いやってくださっていることがひしひしと伝わって芳賀さんの暖かいお人柄に感激しました。 丁度その頃、家内のクラスメートで九州交響楽団でバイオリンを弾いている友人から励ましの電話があり「バイオリン教室の発表会の記念品に使える千円ぐらいの商品がないですか」という注文を頂いて芳賀さんにバイオリンやピアノの柄のハンカチを藍染で作っていただくことになりました。そのハンカチはその後、丸太やオリジナルコレクションコンサートの大ヒット商品になったのですが震災後の苦境の中で今後どのようなものづくりをお願いするかのご相談におうかがいしたのです。 そのなかからハンカチをはじめTシャツ、コースター、テーブルセンター、暖簾、タペストリー、ゆかた、などたくさんのオリジナル商品が生まれました。
 あれから十年、気がつくと十年が経ちました。無我夢中の十年。その間、芳賀信幸さんとは何度もお会いしてものづくりのご相談や個展を開催していただきました。この七月に弊店で個展を開催していただくことをお願いして何故か広河原の工房をお尋ねしたくなりました。 広河原の空気を久しぶりで吸いたくなったのです。たどりつくと十年前と同じ、地図を見なくてもここだとすぐ分かりました。小川にかかる小さな橋を渡って坂を登ると木造の工房、芳賀さんは谷川の水を引き込んだ洗い場で染め上がった藍の布を水洗されていました。心を洗いたくて来たのかな、この十年の。