去る六月十日、東京の高橋孝之さんの工房を訪ねました。はるか昔に東京に連れて行ってもらったときは、ここがどこかを考えることもなかったですが、大人になって訪れた東京は巨大で多様な大都市でした。新宿から二駅、「高田馬場駅」で降り立つと、そこは広い道路に商店が並ぶ街でした。ここに今なお着物をひとつひとつ手染めをしている工房があるのか、半ば信じられない気持ちでした。でも大通りの一筋横道に入ると、そこは狭い路地が入り組む住宅街でした。少し歩いたところには神田川が流れていて、昔はこの川沿いに江戸の染物工房が並んでいたそうです。職人の町だったのですね。
 高橋さんの工房も路地を何度か曲がった先にあって、高橋さんと若いお弟子さんが迎えてくださいました。少しお話した後、すぐに工房へ案内してくださいました。工房は細長く、中央には着尺一反分以上の長い桶が据えられて、水を湛えていました。高橋さんは染料を手に取ると、筆で桶の水面にパッパッと撒いていきます。黒い染料は水面に落ちた瞬間に消えていきます。いや、よく見ると表面に薄い膜ができていました。これを何回か繰り返すと、段々と模様がはっきり見えるようになります。違う色も交えながら三回ほど染料を落とすと、奇麗な模様が浮かび上がりました。そこで高橋さんは、紐の付いた棒を取り出して、水面を撫でていきます。ゆっくりした動き。少しとろみをつけてある水は、紐の動きに揺られて、スローモーションのように波を広げていきます。「もう少し揺らしてみようか」といいながら高橋さんは模様を揺らしていきます。そして、不思議な流れのある模様ができました。ここから白生地に模様を写し取ります。13メートルほどある生地の両端を持って桶の上に構えます。弟さんと息を揃えて、さっと生地を水面へ。すると、真っ白な生地に一瞬で模様が表れました。あっという間の出来事でした。それまで水面にうっすらと浮かんでいたかそけき模様が、その瞬間、生地の上にはっきりと生まれ出でたという感じでした。
 「墨流しはアドリブが大事なんだ」と高橋さん。製作中も、作りながら模様の変化を楽しんでいるようでした。墨流しは一瞬にして生まれ、二度と同じものは現れません。一期一会の瞬間芸術です。僕の目の前で生まれた浴衣も、二度と同じものは生まれない。そう思うと、この浴衣がかけがえのないものに感じました。この浴衣は何方がお召しになるのだろう。その瞬間、どんな出会いがあるだろう。全て、一期一会。これを着たら、一瞬一瞬が大切に思えるだろうな。そんな風に感じました。

染料を落とす

染付け