去る2月23日、新潟県小千谷市に行きました。始めて上越新幹線に乗ったのですが、高崎を過ぎるとトンネル、またトンネルでした。長いトンネルを抜けて越後湯沢に着くと車窓は雪景色。またトンネルに入り、次の浦佐に着くと雪はさらに深く積もっています。浦佐で降りて在来線の上越線に乗り換えて小千谷に向かいました。新幹線では乗車中ほとんどトンネルだったのが、上越線では車窓に広がる雪景色を見ることが出来ました。神戸に住んでいると雪には全く縁の無い生活で、たしかに雪景色は珍しく綺麗でもありますが、雪景色を楽しむ、という気持ちよりは、何か空恐ろしい気分になりました。
 小千谷を訪れるのは3度目、最初は1995年1月13日、14日、でした。小千谷縮の織物作家、樋口隆司さんの織個展を、2月に開催していただく予定で、産地を見学させていただくために、小千谷を訪れたのです。12日の夜、神戸を発って、夜行の寝台特急で行きました。朝、眼がさめると、窓の外は雪景色。日本海の荒波が容赦なく、砕けるように打ち寄せて、海岸には波の花。次第に朝が明けてゆくと、世界は黒と白のモノトーン。神秘な静寂に包まれているようでした。雪の無い神戸からきた私には、しかし、小千谷で樋口隆司さんから聞かせていただいたお話は驚きでした。毎年、この時期には、交通事故と同じぐらいの死者が、雪下ろしの事故で亡くなられるとのこと。雪国に暮らす人達にとって、降雪、という自然がどれほど過酷であることか。あれから13年が経ち、久し振りに雪国を訪れた私が、車窓の雪景色を、綺麗だ、と気楽に楽しめなかったのは、樋口隆司さんのお話を聞いていたからです。雪は、雪国の人達にとって、闘うべき巨魁。闘わなければ、比喩でも誇張でもなく、押しつぶされるのです。まして、3年前の新潟・中越地震。雪との闘いは一層、過酷だったそうです。
 13年ぶりに小千谷を訪れたのは、来る、3月22日から30日まで、3度目になる樋口隆司さんの織個展を弊店で開催していただくからです。1995年2月に開催の予定だった樋口隆司さんの最初の個展は、阪神・淡路大震災の勃発で中止になり、翌、1996年2月に延期開催していただきました。翌年、1997年に2度目の開催、そして今年。昨年10月、弊店での3度目の個展開催が決まって、12月14日、樋口隆司さんが弊店にお越しくださいました。10年ぶりに再会した樋口隆司さんは、以前にも増して精悍でした。開口一番、「私も被災者になりました」。新潟・中越地震の後、雪との闘いが何より辛かったこと、「雪かきをしながら、辛くて、辛くて、涙が止まりませんでした」。2月23日に小千谷を訪れた時も雪でした。小千谷縮の伝統的な技法である「雪晒し」を見せていただきに上がったのですが、雪に加えて強風で、「風が強いと、生地が飛んじゃうんで、出来ないのです」としばらく天候をうかがっていたのですが、やむなく中止。
 ゆっくり時間が取れたので、樋口隆司さんは、私たちを明石堂に案内してくださいました。小千谷縮は江戸時代初期に、播磨明石藩の藩士だった堀次郎将俊が、小千谷で織られていた越後麻布を改良して、麻縮を完成させたのが始まりで、小千谷縮の創始者である堀次郎将俊の功績を偲んで建てられたのが明石堂だそうです。以後、明石堂は、小千谷縮の生産者によって、代々、維持、管理されてきたそうで、新潟・中越地震の際も、地震直後、小千谷織物同業協同組合の理事長である樋口隆司さんは、明石堂が無事だったかどうか、祈るような気持ちで駆けつけたそうです。残念ながら、大きく被害を受けていましたが、小千谷織物同業協同組合で修理、再建されたとのことでした。
 「地震は大変だったですけれど、一回だけのことですから。雪との闘いに終わりはありません。いつも、雪が降り始めたら、よし、今年も雪に負けないぞ、と心を奮い立たせるのです。雪に立ち向かう気持ちが大事なんです」。そうなのだ、不屈の魂は、雪に鍛えられたのだ。小千谷縮が、「雪晒し」という、小千谷の人達にとっての自然の猛威を、逆手にとって生み出されたように、雪国の人達は、雪に負けない不屈の魂で、震災を乗り越えようとされている。樋口隆司さんは震災後、織り上げられた着物に、「フェニックス」という名前を付けられました。