八月の最後の三日間、信州に行きました。震災の後、その昔、大阪シンフォニカーの仲間だったチェリストの成川昭代さんと、ご主人のマンドリン奏者、川口雅行さんが主催する「清里マンドリン音楽祭」に毎年、参加していました。「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の商品を会場で販売させて頂いていたのです。清里で八月の初旬に開催される音楽祭に参加する、その足で、毎年、上田に回って小山憲市さんの工房をお訪ねしてきました。「清里マンドリン音楽祭」は昨年、第十五回をもって終了し、今年は開催されなかったのですが、小山憲市さんの工房へは、是非、今年もお伺いしたくて、例年より遅く、八月の終わりにお訪ねしたのです。 二十九日の朝、神戸を出立し、夕方、信州松本の美ヶ原温泉、旅館「和泉屋善兵衛」に到着しました。「みさやま紬」の横山俊一郎さんを初めて松本に訪ねたとき、横山俊一郎さんに紹介していただいて、家族全員、大のお気に入りの旅館です。普段、食べ物には贅沢をしない私達ですが、この時だけは大層立派な料理で、兎に角、次から次に出てくる料理が美味しい。地酒を飲みながら頂くと最高です。この旅館が気に入っている理由は、勿論、食事が素晴らしいこともありますが、接客が実にさりげない。もったいぶったところがまるでない。うわべの言葉ではなく、中味で勝負する。宿泊する客にとって大事なものを、大事なものだけを大切にする。弊店もお客様にとってそういう店でありたい、と宿泊するたびに思うのです。 翌朝、旅館を出て上田へ。松本市街を通り過ぎ、ふもとに横山俊一郎さんの工房がある三才山(みさやま)を長いトンネルで通り抜け、山あいの田園を両側に見ながら上田市街へ入ります。上田は、周囲をなだらかな山の稜線に囲まれたおだやかな街並みで、小山憲市さんの工房は市内北端、菅平(すがだいら)のふもとにあります。丁度、昼前に到着しました。エンジンの音を聞きつけてか、小山さんと奥様が、車を停める間もなく出迎えてくださいました。「お久しぶりです」という声も若々しく、家内は思わず「小山さん、ちっともお変わりになりませんね」「そんなことないですよ。成美さんこそ」と言ってもらってました。 着いてすぐ、挨拶もそこそこに、小山さんが昼食に市内の蕎麦屋さんに案内してくださいました。先年、連れて行ってくださった蕎麦屋さんで、人気のお店で、いつも満員です。その日も、大きな駐車場に、やっと一台分、空いていて、車を停めることが出来ました。人気の秘密は、味もさることながら、量、それも、並みの量ではありません。大盛でも注文しようものなら、まさに桶一杯。普通のざる蕎麦なら五人前はあろうかという量で、以前に来たときは息子が大盛を注文して、今回は、さすがに並を注文していました。並でも優に普通の二倍はありそうで、もう満腹。大満足で工房に戻りました。 工房では小山憲市さんの最新作を拝見させていただきました。小山さんの作品を見せていただくたびに感心するのは、いつも、今までとは違う、新たな境地を切り開かれていることです。糸を変え、染めを変え、組織を変え、絶えず、今までと違う、新たな世界を表現されている。今回は、野蚕、という天然の繭からとった糸。その繭は、まるでレースを編んで作った小さな籠のようです。その糸は、ざっくりしていて織り込むと、なんとも言えない表情がある。上田の特産でもある胡桃の実や皮で染めた糸。草木染ならではの味わいのある色。「この糸は二度と手に入らない糸なんです」と眼を輝かせて見せてくださったのはインドの手つむぎ糸。市内のカレー屋さんの店内に飾られていた糸を譲り受けられたそうです。「面白い糸でしょ。これをどう使おうか、考えているのです」。 傍らで息子が、小山さんの話を、食い入るように聞いています。まだ中学生だった頃、小山さんと私が、真剣に、着物について、業界について、着物のお好きなお客様について、話を交わしているのを、聞くともなく聞いていて、「丸太や」を継いで呉服屋になろう、と決心したことを、後日、思いがけない成り行きで知りました。今は、店の手伝いもし、あの頃とは比較にならないほど、呉服という商売について、息子なりに考えているのでしょう。着物を作る人のお話は、私がそうであったように、汲めども尽きぬ興趣があります。 小山さんをお訪ねした一番の目的が十二分に叶えられて満ち足りた気持ちになりました。これまでは「清里マンドリン音楽祭」の後、帰路にお寄りしていたので、夕方には神戸に帰らないといけない行程でしたので、必ずしもゆっくり出来なかったのですが、今回は、小山さんの工房をお訪ねすることだけが目的だったので、小山さんも是非、近隣を案内したいとおっしゃってくださって、奥様がおすすめの白樺湖の「影絵美術館」を案内してくださることになりました。白樺湖に登りつめると小雨交じりで肌寒く、酷暑の神戸とはまるで別世界です。「影絵美術館」には、かつて私も何度か眼にしたことのある藤城清治さんの作品が館内いっぱいに展示されていました。圧巻は、大きな円い部屋の周りに描かれた白樺湖の四季で、影絵でしか表現できない幻想の世界でした。「私は冬が好きですね」とおっしゃられた小山さんの言葉が印象的でした。小山さんの心象風景を垣間見たようでした。 小山憲市さんと別れて美ヶ原温泉に帰る道すがら、工房で見せていただいた着物や帯の新作が余情となって気分はさわやかでした。その新作を弊店のお客様にご覧頂くことができる。なんと幸せなことだろう。小山憲市さん、その人の、人を惹きつける魅力はなんだろう。それは、それが、なんであろうと、心を尽くす、誠を尽くす、そのなかに、おのずとあるのではないか。小山憲市さんの作品のなかにも、おのずとそれはある。誠を尽くすことでしか言い表せない何かが。 |