「愛犬を帯に描いていただけないですか」というお客様のご要望が事の始まりでした。音楽をモチーフにした「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の制作と販売を始めて以来、音楽だけではなく、様々なモチーフ、花とか星、鳥や魚、などなど色々、着物や帯、器や衣服に描いていただきました。しかし帯に犬、というテーマは初めてで、かつ耳の形が羽を広げた蝶々に似ているパピヨンという愛くるしい品種の犬であることを考えると、染色家のどなたに依頼すれば良いのか、すぐには判断しかねました。
 一月の後半に開催した服部綴工房の個展の期間中、服部秀司さんが連日弊店にお越しくださいました。雑談の中で、どういう話の流れだったかは忘れましたが「木戸源生さんという染色家の素描(すがき)は素晴らしいですよ」とおっしゃったのです。素描とは生地に直接筆を走らせて模様を描く手法で、書道と同じで筆の運びで出来映えが決まってしまう、本当に運筆の力のある方でないと良い絵は描けません。「日本一ですね」という服部秀司さんの言葉に、きっと嘘も誇張も無い。愛犬を帯に描いて欲しい、というご注文をいただいて、どうしたものかと思案していることを申し上げると「ご紹介します」と引き受けてくださいました。
 初めてお会いした木戸源生さんは腰の低い気さくな方で、すぐに打ち解けてお話が弾みました。お客様のご要望をお伝えすると「参考に」と持参された染帯を広げられたのですが、そこに描かれていた猫の絵、とりわけその眼に釘付けになりました。スゴイ。かつて見たことが無いほどスゴイ。猫であって猫ではない。猫を描いて、その存在の美が描かれている。お客様からお預かりしていた愛犬の写真をお見せすると、こともなげに「特長がはっきりしていて描きやすいですね」とおっしゃいました。恐る恐る「因みにお値段は」とお訊ねすると信じがたいほど手頃なお値段です。「それでいいのですか」と聞き返すと「どなたにもそのお値段でお作りしています」。
 一度工房をお訊ねしたい、とお願いしていたところ「四月の初めに日本染織作家展が開かれますからご覧になられますか」とご案内をいただきました。京都市美術館別館に伺うと木戸源生さんが受付でお待ちくださっていました。会場には著名な染織家の作品が所狭しと展示されています。ひとつひとつ拝見していくと真ん中辺に「萌春」を名付けられた木戸源生さんの訪問着が展示されていました。息を呑む美しさです。題名のとおり萌え出づる春の息吹が爽やかに漂っています。この作品には京都府知事賞が授与されていました。その先にもう一点「早春」と名付けられた訪問着が展示されていました。こんもりとした木立を見上げる、萌え出でたばかりの若葉を通して春の光が一面に射し込める。その構図の大胆さ、技法の緻密さに圧倒されました。その作品には京都市長賞が授与されていました。その夜、夢の中で何度も木戸源生さんの作品を見続けていました。心の底から感動したのです。
 木戸源生さんは素描の名人ですが本領は本友禅染にあります。日本が生み出した最高の染色技法、糸目友禅、糸のように細い線を糊の入った筒先で描いていく技法のまさに当代随一、間違いなく第一人者です。日本文化がかつてなく開花した江戸時代、南蛮渡来の更紗染を日本独自の模様染に完成させた本友禅染が、時代を超えて脈々と受け継がれ、その遠々とした本流を木戸源生さんは受け継がれたのです。この度、弊店で木戸源生さんの作品、日本が生み出した染色文化の精華をご覧頂けることになりました。私自身、親しくその作品を拝見させて頂くことを心から楽しみにしています。きっと、あの日の感動が再び甦ることでしょう。
 ところで、ご注文のパピヨンの帯は完成し、お客様がお喜びになられたことは、あらためて申し上げるまでもありません。「こんなお値段で本当に良いのですか」。